第一章 異国の大地 4.
部屋を出たセレスティは扉に背を預けて、深く息をはきだした。 ものすごく緊張した。 かつて父王や兄王に謁見するのと比べることもできないくらいに。 「あれが……ラティニアの皇帝」 冷酷無慈悲の魔王。 化け物の親玉。 そう教えられていたから、もっと怖いひとだと思っていた。 大好きな兄と、父の命を奪った憎い者たちを統べる者。それなのに―――それなのに思っていたのとは全然ちがっていた。 憎ませてくれれば、もっと簡単だったのに。 「こんなはずじゃ……」 「あ〜、終わりましたぁ?」 背の低い女の子がちょこちょこと走り寄ってくる。 腰まで伸ばした長い青色の髪が特徴的な女の子は大きな青い目でセレスティを見上げた。 「陛下、良い方でしょぉ?仲良くしてさしあげてくださいね、お姫さま」 にっこりと笑って、少女はセレスティの手を引いた。 「じゃ、お部屋に案内しまーす。こっちですよぉ」 「あ、あの……」 「ボルちん……じゃなくて、ボルクは仕事で行っちゃったんですぅ。だから、あたしが代わりにお姫さまを案内するようにってボルクに頼まれたんですよー。あ、あたしはエリアルっていいますぅ」 ぺこりと頭を下げて、エリアルはにっこりと笑った。 「陛下だけじゃなくて、あたしたちとも仲良くしてくださると、もっともぉっとうれしいです」 「は、はあ」 「あ、お姫さまもお疲れですよねぇ。じゃ、お部屋の方に行きましょおか」 なにがそんなに楽しいのかというくらい、にっこにっこと笑いながらエリアルが歩き出した。 「今夜はお部屋の方でお食事を取られるって聞きました。陛下がスレイン風の料理をお出しするようにって料理長に言ってらっしゃったので、今日はきっとお口に合うと思いますよぉ」 スレインはたしか、味が濃い目なんですよね〜とエリアルはのんびり付け加える。 「ほかにもなにか要望でも意見でもあったら、なんでもおっしゃってくださいねぇ。陛下はお優しい方ですから、たいていのことは受け入れてくださると思いますよぉ」 「あ、はい」 外はすっかり暗くなっているが、あちこちにともされた明かりのおかげで暗いとはあまり感じない。 ろうそくの明かりとはちがう、不思議なまるい光の球が浮いている。不思議なものだと見上げていたセレスティは前を歩く少女にあわててついていく。 手入れの行き届いた庭園が広がる通路を通る。城から少し離れた、いわゆる後宮の中を歩いているのだろう。 「このお庭もとってもきれいなんですよぉ。お昼に見るのと夜に見るのではまたちがったフゼイがあるので、時間ができるようになったらお散歩にでも出てみてくださいね。毎日手入れしてる庭師の人もよろこびますぅ」 たしかに庭園の中にも火じゃない不思議な明かりがまばらにともされている。落ち着いた静かな空気が感じられた。 屋根のつけられた石畳の道の先に、ひっそりと小さな城のようなものが見える。 「あれが陛下の後宮ですか」 「陛下の自邸のようなものですぅ。陛下は後宮って呼ばれるのを嫌われてるので」 「そうなんですか。気をつけます」 「ま、多少の女官はいますけど、実際に住まわれているのは陛下と陛下の妹君だけですから、はっきり言って陛下の私邸ですよぉ。あ、でも陛下の妹君は先代の離宮の方へ訪問されてるので、いまはいらっしゃりませんけど」 「えっ?ほかに奥さまがおられるのでは?」 セレスティが訊ねると、きょとんとしながらエリアルは目を丸くする。 「陛下にはまだ奥さまはいらっしゃいません。あ、でもお姫さまが来てくださったから、皇后さまはばっちりですね!」 やっとラティニアも安泰ですぅ、とエリアルが間の抜けた声をあげる。 セレスティはいま言われたことを理解しようとぐるぐる回っているエリアルの言葉を何度もリフレインさせていた。 (皇后?わたしが?) ラティニアともっとも険悪なスレインの姫であるセレスティが、ラティニアの皇帝陛下の正妻ということになる? なんだかいますぐ倒れてしまいたい気分だ。 「奥さま、おられないんですか?」 セレスティはかすれた声で訊ねる。 「そーなんですぅ。陛下ってば、国内の有力貴族も国外の姫君も、ことごとくお断りになっちゃうんで」 (なぜ私だけは断らなかったの?) そう思ったが、とても口に出して問うことはできなかった。 「あのぉ、聞いてもいいですかぁ?」 エリアルがもじもじとしながらセレスティを見上げる。 「え、ええ。どうぞ」 「お姫さま、お名前はなんとおっしゃるんでしょうか」 「え?」 「ごめんなさいぃ、お聞きしてないんですぅ。それどころか今回は―――」 びゅおっと強い風が吹いて、セレスティのドレスやエリアルの結っていない青い長い髪を巻き上げた。 セレスティはあわててドレスと髪を風にもみくちゃにされないようにおさえた。 エリアルはというと、なぜか両手で口を押さえていた。 「エリアル、さん?」 「あ、あはははは!ごめんなさいぃ、あたしってばうっかりしてて、聞いておくのを忘れちゃったんですぅ」 コン、と右手をグーにして自分の頭を叩いてエリアルが苦笑いする。 明らかに話を変えた不自然な行動に見えたが、突っ込んで聞く勇気がセレスティにはまだなかった。 「セレスティ・リーゼ・レインといいます」 「セレスティちゃん……セラちゃんじゃダメですかぁ?」 ひゅっと小さな音をたてて息をのむ。 セラ。 それは亡き父と母、兄が呼んだ愛称と同じ。 もういない家族にしか呼ばれていなかった、二度と呼ばれることのないと思っていた呼び名だ。 セレスティはそれが顔に出ないように笑みを浮かべた。 「どうぞ」 「ありがとーございますぅ!あ、あたしのことはエリーって呼んでください。うわー、セラちゃんが優しい方でよかったですぅ。スレインは怖い方が多いというからちょっとドキドキしてましたぁ」 エリアルはほっとしたような顔をして、陛下の私邸の玄関ドアを開けた。 「さ、どうぞぉ」 「ありがとう」 エントランスから二階へと上がる階段が両側についている。大理石の床に青色のじゅうたんが敷かれている。壁にはセンスの良い絵画がかかっている。貴族の屋敷のようなこぢんまりとした内装だ。 「一階はダイニングルームなんです。お風呂はおっきいのが二階にありますよぉ、先代さまの自慢のお風呂ですぅ。セラちゃんのお部屋は二階です、さ、行きましょー」 エリアルがすたすたと歩き出すので、セレスティもそれについて階段を上る。 もとは後宮だからか、部屋はたくさんあるようだが、どれも使われている様子はなかった。 その視線に気づいたのか、エリアルが苦笑した。 「掃除はおこたってませんけど、ほんとに使われてるのは二部屋だけです。今日からは三部屋になりますね」 二階に上がったところから部屋はあったが、そのまま進むと十字の曲がり角が見えてくる。 その中央には大きな花びんに大小さまざまな花が生けてある。 「この右手の奥がうちの姫さま、ええと、皇妹殿下のお部屋ですー。お帰りになったら陛下がきっとご紹介くださりますよぉ。セラちゃんのお部屋はここをまっすぐですー」 エリアルは十字をまっすぐに進んで、左手の部屋の前に立った。 「ここがセラちゃんのお部屋になりますー。ちなみに、陛下のお部屋はこのつきあたりのお部屋でーす。おなか空きましたぁ?お食事、すぐ持ってきてもらいますー?」 「まだいいです。後でまたお願いします」 「わかりましたー。じゃ、失礼しまーす」 ぺこりと頭を下げて、ちょこちょこと歩いていきかけて、思い出したように振り返った。 「そういえば、あたしは陛下専属の医師とここの女官長を兼任してますので、なにかあったら呼んでくださいね?すぐ飛んで来ますからー」 にこっと笑って、もう一度頭を下げてエリアルはすたすたと行ってしまう。 セレスティはドアノブをまわすと、ゆっくりとドアを開けた。 大きな天蓋付きのベッドが目に入り、柔らかな木目調のドレッサーや小さな机が置かれている。 落ち着いた、品の良い部屋だった。 スレインにあったセレスティの部屋よりもずっと広い。へたをしたら、母に与えられていた部屋よりも。 クリーム色のソファセットのそばに立っていたアニスがあわててセレスティに寄ってきた。 「姫さま、お帰りなさいまし。変なことをされたり、言われたりしませんでしたか?」 「ええ。だいじょうぶ。なにもないわ」 「お茶を入れましょう。さ、お座りになってください」 アニスがお茶の用意を始める。ということは、部屋にある四つのドアのうちの一つはとなりの侍女部屋にでもつながっているのだろう。一つは廊下からの入り口だ。 「すごいんですよ、衣裳部屋が丸まる一つあるんです。すでにいくつかは用意してくださってるみたいですし。後で姫さまも見てみてください」 「そうね」 四つのうちの三つのドアは行き先が決まった。 あと一つは? セレスティがソファに座ってじっとそれを見ていたら、アニスが紅茶を持ってやってくる。 「姫さま、ラティニアの皇帝陛下はどんな方でした?」 「え?そうね、優しそうな方だったわ」 「最初はそんな感じですよね、どんな方でも。油断はできませんわ、姫さま」 「ええ、わかっているわ」 カップに口をつけながら、セレスティは小さくため息をもらす。 それでも、すでにこの城も国も人々も、きらいになれそうにない自分を、セレスティは感じていた。
「たっだいまぁ」 部屋に入ってきたのんきな声に、部屋の一同がため息をもらした。 「どうでした?スレインの王女殿下は」 「優しそうな良い人でしたよぉ?みんな、心配しすぎなんじゃないですかぁ?」 「おまえがウラオモテなさすぎなだけだろ。表面上をとりつくろうことくらい、だれだってできる。ま、おまえ以外はな」 「ひっどぉい、ボルちんひどすぎ!」 「ボルちんって呼ぶな!」 ボルクが怒鳴ると「きゃあ!ボルちんが怒ったぁ」エリアルが背の高い青年の後ろに隠れる。 「エリー、ほかにないんですか?」 「え?んとぉ、セラちゃん、どことなくだけど、びくびくしてるかな」 「びくびく?」 「うん」 「なにか後ろめたいことでもあるんでしょうか」 「そういう感じはしなかったよぉ」 「なんにしても、名前も肖像画もなんにも送ってこねぇから、こっちには情報なしだからな。警戒しておくに越したことはねえよ」 ボルクが腕組みしながらぼやくと、くすりと笑う声が上がる。 「あら、彼が調べたんじゃないかしら。陛下に危険人物を近づけるとは思えないもの」 「あいつ?だってあいつ秘密主義だから。アーサーにはなんっでもしゃべるクセして、俺らにはなんにも言わねえもん」 「なにかあったら陛下が伝えてくださるとは思いますが……我々がいつもよりも気を張っておく必要があるとは思いますよ」 「ま、そうだろうなぁ」 アーサーは冷酷無慈悲の魔王と呼ばれるが、それもひとえに戦が起こり、過去の行為からそう呼ばれたまでのこと。 決して当人に感情がないわけでも、冷酷なわけでもない。 本当は、だれよりも優しいひとだから。 「だれよりも幸せになってほしいんだけどな」 ぽつりとつぶやいたボルクの言葉に、みんながうなずいた。 「それは我々だけでなく、ラティニアの民すべてがそう思っているでしょう」 「スレインの姫君との婚儀が、吉と出るか凶と出るか……」 「たとえ凶だったとしても、凶を吉に転じさせるのが、俺たちの仕事だろ?」 「ほうっておいても、きっとだいじょうぶな気がするけどなぁ」 のほほんとしたエリアルの言葉を、ボルクは半眼で聴いていた。 「またおまえはいいかげんなことを。そんなんだから口を滑らせかけるんだぞ」 「ごめんなさいぃ、気をつけてたんだけど」 「絵姿すら送ってこないからな。本当に結婚させるつもりなのかとか、本物の姫なのかとか。よけいなところで疑いたくなっちまうじゃねえかっての」 「今度のスレイン王も、そうとうラティニアを目の敵にしているようね」 困ったようにつぶやく声を聞いて、エリアルはいつになく深く考え込む。 「うーん、仲良くできないのかなぁ。あたしたち、ただ魔法が使えるってだけなのにねぇ」 「それが怖いんでしょうね、魔法なんて、他国にとってはとっくの昔に失われた技術ですし」 「でも、そうやって迫害したり怖がったりして追い出すから、うちの国にしか居場所がなくなって、他国からガンガン魔法使いたちが逃げてくるって結果になってるんだけどな」 「そのへんはわかってないんですよね」 「あら、でもそれは解決するかもしれないわよ?」 「えー?ほんと、シャルちゃん!」 「陛下とスレインの王女殿下が、うまく橋渡しをしてくれれば、ね」 「あー、そっかぁ!そしたらみんなで仲良く、だね!」 うれしそうにぱちぱちと手を叩くエリアルを、あきれたようにボルクがながめる。 「そううまくいくかな。スレインでのあの王女さんの扱いはそうとうひどかったぞ?ラティニア嫌いのスレインが問答無用で差し出したんだ。ぜったいなんかウラがあるって」 「そのために、僕たちがいるんでしょう?陛下のためにも、なんとかするしかないでしょう」 「じゃ、あたし張り切って見張りまーす!」 はいはーいと手を上げながらエリアルが告げる。 「俺はなるべく陛下についてるようにするよ」 「私は王女さまとスレインの思惑について、それとなく調べてみましょう」 「しばらくの間はいつも以上に気を配って陛下をお守りしましょう。ラティニア史上、スレインの姫君方は五人嫁いでこられましたが、全員当時の陛下の暗殺に関与して自害していますから」 「え、そうなのぉ?」 エリアルがさっと顔色を変える。 「今回も同じとは思いたくはないけれど、念には念を入れておくに越したことはないわね」 「でもでも、セラちゃんは本当に良い人だよ?」 「どんなに良い方であっても、教育と環境次第で変貌しますから。取り越し苦労であってほしいとは思っていますが」 「なんにしても、この一週間を乗り切ればたぶんだいじょうぶ。前例を見てみても、一週間以内に決着がついているから」 「勝負は一週間。なにがあっても陛下をお守りしましょう」 うなずきあって、アーサーの側近たちは部屋を後にした。
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