8.いとしい君へ
お嬢さまが帰ってきた。
領主の一人娘が消えてからというもの、ずっと活気を失っていた領主の屋敷がわいた。
手厚く出迎えられると同時に、ニースは両親に怒られた。
突然出て行ったこと、連絡もよこさなかったことに対して、両親はものすごく怒っていた。それはニースの悪かったところでもあるので、素直に謝った。
そして翌日、ゴードンが来るということを聞いてニースは両親とゴードンを交えて話したいことがあると告げていた。
ニースは内心、とても怖かった。
父と母にわかってもらえないかもしれないこと。
そしてなによりも、ジャックが来てくれるかどうかということ。
部屋のいすに腰掛けていたニースはテーブルで手を組んだ。
「ジャックさん……」
自ら選んで離れたのに、もうそれを後悔しかけている。
強く変わるために、戻ってきたはずだ。
ニースはぎゅっとこぶしを固める。
弱い自分ではいたくない。
ジャックに認めてもらえる人になりたいから。
ろくに眠れなかったニースはふうっとため息をもらしながら冷めた紅茶を飲み干す。
とにかく、気持ちを落ち着けなくては。
「それにしても、恥ずかしかった」
家に帰ってきてから恥ずかしさがこみ上げて憤死しそうだった。
あそこではついあんなことを言ってしまった。
好きですと、言いたかったはずだったのに。
ニースのことをどう思っているのか聞くつもりだったのに。
気づいたら告白を通り超えてプロポーズになっていた。
「女である私があんなことを口にして、はしたないとかみっともないとか、思われてしまったかしら」
親が決める結婚が普通なのに、あろうことか男性から言われたでもなく自分から口にしてしまっていた。
真っ赤な顔でニースは眉間にしわを寄せた。
「いいえ。とりあえずこれは置いておきましょう。悩んでいてもしかたがありませんもの。とにかく、わたくしの思いをお父さまとお母さまにわかっていただかなくては」
忘れたいが忘れたくないので、とりあえずあのことは置いておこう。
ニースは決意を表すようにぱちぱちと頬をたたく。
「がんばらなくちゃ」
こんこんと、ノックがされてニースは顔を上げた。
「はい」
「お嬢さま。みなさまおそろいになっておられます」
「わかりました」
ニースは立ち上がる。
ニースの戦場に立つために。
かちゃりととびらを開けると、父と母が中央に置かれた長ソファに座っていた。
その向かいにあるソファにゴードンの姿も見られる。
「ニース」
ゴードンが立ち上がる。
「心配していたんだよ」
「そうですか」
いつものニースではありえない言葉にゴードンがわずかに眉をひそめる。
「お父さまお母さま、それにゴードンさまも。ご心配をおかけしましたことをおわびいたします」
ニースはドレスをつまんで優雅にお辞儀をした。
ニースの父は重々しくうなずいて、ゴードンのとなりのソファを示した。
「座りなさい。話はそれからだ」
「はい」
ニースはドレスをきれいにさばいてソファに身を沈める。
すきなくドレスを着こなしたニースは戦場に立つ将軍のようだった。
ゴードンがいつもとちがうニースの様子に目を丸くしている。
「ニース、どうして突然家を出たりしたのですか?」
ニースの母が眉間にしわを寄せながら訊ねる。
「わたくしは、聞いてしまったからです」
「何を?」
「ゴードンさまと、ボニーの話をです」
ゴードンが目をみはる。
領主夫妻の視線がゴードンに向けられた。
夫人が小首をかしげながら訊ねる。
「なんのことですか?」
「ぼ、僕にもなんのことだか……」
視線をさまよわせるゴードンはみっともなく見えた。
それほどまでに、領主のエラーナ伯爵の地位は捨てがたいのだろうか。
「みっともないと思いませ、ゴードンさま」
ぴしゃりと言うと、ゴードンが固まった。
「わたくしは伯爵位を手に入れるためのお飾りの人形だと、おっしゃればよろしいではありませんか」
「ニ、ニース……」
うろたえたゴードンは悪役としても三流だろうとニースは思った。
「お父さまお母さま、わたくしはこの十日あまり、町で過ごしました」
伯爵夫人がうなずく。
「そこでわたくしは、あるお方に助けられました。もちろん、その方だけでなくたくさんの方々に救われました」
ボブとその手下たち、宿屋の女将さん、女医のアネット、ギルドのヒュー、たくさんの人たちがニースの生活を助けてくれた。今まで知らなかったたくさんのことを教えてくれた。
そしてジャック。
支えられるだけでなく、ニースにも支えてあげられることを教えてくれた。
「わたくしに、言いたいことを言っていいのだと、彼らが教えてくださいました」
良き妻、良き娘からは少しかけ離れてしまうのかもしれない。
女性に口答えをされるのを嫌う貴族は多い。
だが、ジャックも周りの人たちもそれでいいのだといってくれた。
ニースはまっすぐな視線を父に向ける。
「お父さま、わたくしは、ゴードンさまとは結婚できません」
「ニ、ニース?!」
「結婚前から浮気の確約をされている方と、そいとげられるとは思えません」
ゴードンが少し腰を浮かせたまぬけな格好のまま固まる。
伯爵は腕を組んだまま、閉じていた目を開いた。
「知っていた」
「え?」
ニースとゴードンが同時に声を上げた。
伯爵が顔を上げた。
「ゴードン君の考えも、ニース、おまえの押し殺していた考えも知っていた」
「お父さま」
「伯爵、それは……」
「ニースがどうするのか、それを知りたくてだまっていた」
伯爵が言うのは伯爵夫人も初耳のようで耳を疑っていた。
「あなた、ニースになんてことをなさるのですか」
「ニースに我が爵位を預けられるのか、試したかったのだ」
自分の考えを持てない領主ほど、使えないものはない。
民のことを考え、家のことを考え、中央とも折り合いをつけてやっていかなくてはならない。向いていないのなら、しっかりとした婿を迎えるか、信頼できる人に譲渡できるように中央にかけあわなければならない。
いくらゴードンの父と懇意とはいえ、とてもゴードンにも任せられるとも思えなかった。
だからどうすべきか、考えていたのだ。
「今までのおまえでは、とても勤まるとは思えなかった」
「はい」
「だが、心を入れ替えたのだな。見直したぞ」
父がわずかに微笑んだ。
父のそんな顔を見るのは久しぶりで、ニースは思わず顔がほころんだ。
「お父さま……」
立つ瀬のないゴードンが立ち尽くしている。
伯爵がチラリと冷たい視線を送った。
「ここは私の屋敷だぞ。きみはそんなことをしていてばれないとでも思っていたのかね?」
「は、伯爵……」
「いつもよくも顔を見せられるものだと、笑わせてもらっていた」
ゴードンはすっかり固まっている。
「このことは、お父上にも伝わっている。きみのお父上もきみの所業をご存知だ。言わずにいてくれと、私から言ってあったからな」
ゴードンの顔がさっと青くなる。
「この話はなかったことにしてもらう。せいぜい、今後の身の振り方を考えておけ」
さっと手を振った。
もう顔も見たくないとでも言いたげに、伯爵はそれから一瞥すら与えなかった。
真っ青な顔色で、ゴードンはふらふらと部屋を出て行く。
伯爵は戸が閉まるのを見届けてから、ニースに向き直った。
「それで、ニース。おまえは勉強を始めるのだな」
「はい」
伯爵は少しうれしそうに口角を上げた。
「そうか」
伯爵としても、できれば娘に譲りたかったのだろう。
親としてそう考えるのは当たり前だ。
「お父さま、それでもう一つお願いがあるのです」
「なんだ?」
「わたくしは、好きな方ができました。その方と、ともにありたいと思うのです」
両手を組んで、ニースは幸せそうに微笑む。
思いもかけないニースの告白に、両親が顔を見合わせた。
「いったいどこのどなたなの?」
先に我に返った夫人が訊ねる。
ニースはどこまでも深い黒い瞳で両親を見つめる。
「貴族の方では、ありません」
すでに捨てた身分を名乗るような人ではないことを知っている。人は身分で分けられるものでもないというのも町で知った。
「町の者か」
ニースはこくりとうなずいた。
伯爵が腕を組んで訊ねる。
「だれなんだ、相手は」
名前を出してよいものか。
ニースはなんというべきか、悩んだ末に無難な答えを述べる。
「町で、傭兵を営んでいる方です」
「傭兵ですって?そんな……」
伯爵夫人が顔を真っ青に変える。
血なまぐさい稼業の人間と娘をなんて、とても貴族の娘であった伯爵夫人には考えられないことだ。
夫人が身を乗り出してニースの手をにぎりしめる。
「ニース、考え直してちょうだい。いくらあなたが好きだと言っていても、相手の方が本気かどうかなんてわからないでしょう?」
「ええ。わかりません。わたくしの、完全な片思いかもしれません」
たしかだとわかっているのは、ニースがジャックを想っているということだけ。
だが、愛とはそういうものだ。
「たしかに見返りがあれば、うれしいです。でも、見返りを求めないのが、愛なのでしょう?」
恋をしたのかどうかは、よくわからない。したのかもしれないし、していなかったのかもしれない。
でも、ジャックを愛しているのは事実だ。
「わたくしは、彼を愛しているんです」
ニースは透明な微笑みを浮かべた。
お待ちくださいっ!というメイドたちの声を振り切って、部屋へと一人の男が入ってくる。
「俺も、愛してる!」
息を切らした赤い髪の男にニースがさっと立ち上がる。
「ジャックさん!」
特別きれいな格好というものではない。
いつもの動きやすい服にマントといういでたちだ。突然入ってきた男に夫人がわずかに顔をしかめる。
それどころではないニースはジャックに走り寄った。
「ジャックさん!来てくださったんですね?」
「ニース、すまなかった。俺が、決断力がないばかりにおまえに言わせてしまった」
「いいえ。いいんです」
ニースは弱弱しく首を振った。
ジャックはそっとニースを離すと、伯爵夫妻に身体を向ける。
「お初にお目にかかります、エラーナ伯爵閣下ならびに奥さま。町でニース嬢にお世話になりました、ジャックと申します」
「ジャック、なんというのだ?」
伯爵が家名を訊ねると、ジャックはわずかにまつげを伏せて、視線を上げた。
「家名は捨てたのです。どうか、ご容赦ください」
「勘当されたのですか?!」
夫人が信じられないようなものを見る目でジャックを見据える。
伯爵が夫人を手で制す。
「かまわん。貴殿の家の後ろ盾など期待はしていない。ただ、どこのだれなのかくらいは教えてくれるだろう。本名は、なんというのだ」
娘の相手を知っておきたいと思うのはもっともなことだ。
ジャックは深呼吸して、一息に告げた。
「ジャック・オーソンと申します」
「まあ!あの、赤い悪魔と同姓同名ですの?!」
夫人が両手で頬を押さえて首を振った。
伯爵は上から下までジャックを品定めするように見定めている。
ニースはそんな父と母の視線からジャックをかばうように前に出る。
「わたくしが、お世話になったのです。お父さま、お母さま」
「いいえ、お世話になったのはおそらく、私の方でしょう」
ジャックがニースの言葉をさえぎった。
「私は、この町の方に救われました。人など信じられなくなっていた私を救ってくれたのは、町の人たちです。それでも、私は私がいとわしかった」
なぜ生きているのだろう。
答えのない問いを、何度となく自問した。
戦に出るたびに体調を崩すとわかっていても戦に出ていたのは、かつては騎士として国を、守るべき民を守りたかったからだ。
この町に移ってからは町の人への恩返しと、いつか自分では死ねない弱い自分に終わりが来るかもしれないとひそかに期待をしていたからだ。
「闇の中にいた私を救ってくれたのは、ニース嬢です」
ニースがジャックを見上げる。
この無垢な瞳は知らないのだろう。
どれだけニースにジャックが救われていたのかを。
でも、ジャックは知らなくてもいいと思っていた。
こんなもの、ニースは知らなくてもいい。ニースに伝えられるものは、ほかにもあるはずだから。
「私はニース嬢を愛しています」
「同情ではないのかね?婚約者にあの仕打ちをされたことに対する。あるいは、感謝の気持ちをかんちがいしていないかね?」
伯爵がジャックを試すように訊ねる。
ジャックは「いいえ」とはっきり告げた。
「お嬢さんを、愛しています」
ニースは両手で口元をおさえて涙を浮かべている。
「ニース嬢を想う気持ちはだれにも負けないと自負しています。またそれに見合うだけの男になれるよう、努力を惜しまないつもりです。どうか、結婚を前提としたお嬢さんとのお付き合いを認めてください」
ジャックは深く腰を折った。
ニースもいっしょになって頭を下げる。
「あ、あなた……」
動揺した夫人が伯爵に仰ぐ。
夫人の言い方からして、断ってほしそうだ。夫人は根っからの貴族令嬢だ、それもしかたのないことだろう。
伯爵は一つ息をはいた。
「そうだな。これからの君の行動次第だな」
ジャックとニースが顔を上げる。
「それは……」
「お父さま?」
「まだはっきりとは決められん。特に、ニースは婚約を解消したばかりだ。この上また解消なんてことになってはもらいてがなくなる」
開口一番ダメだと言われなかっただけましだ。
ニースとジャックが安心したように顔を見合わせる。
「良いと言ったのではないぞ。ただ、保留にして考えてやってもいいと言っただけだ」
ジャックとニースは再び頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「お父さま、ありがとうございます」
「せっかく来てくれたんだ、となりの部屋で茶でも出してやりなさい、ニース」
「はいっ!」
ニースはジャックをうながして、部屋を出て行く。
泣き虫の娘はまた涙を流していた。今度はおそらく、うれし涙だろう。それをジャックがぬぐってやっている。
ジャックはとびらのところでもう一度振り返ってぺこりと頭を下げた。
伯爵はふっと笑う。
夫人は夫に詰め寄った。
「あなた、なんてことを。庶民にニースを、この伯爵邸を渡すつもりなのですか?」
「ゴードンくんよりは、ましだと思うが」
「それにしても……」
伯爵は姿勢を楽にしてソファに身を預ける。
「いいじゃないか。ニースがあんなことを言ってきたのは初めてなんだ。もう少し様子を見てあげよう」
夫人は伯爵の言いようにむっとして、立ち上がるとぷりぷりと部屋を出て行く。
伯爵は立派なひげをさわりながら、ふむとうなずいた。
「ジャック・オーソン、英雄にして悪魔か。ニースめ、とんでもないものを相手に選びよって」
楽しそうに伯爵は低く笑った。
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