7.ニースの答え


 

 ジャックは時計を見上げる。

(遅い)

 風呂を出て着替えて、宿の一階にもうけられたソファに座ったジャックはひざの上にひじを置いて頬杖をついていた。

 外に予約といっても、そういい店に予約ができたわけではない。急だったし、なにより庶民がいける店には限界がある。

(あいつがそんなお嬢さまだったとはな)

 領主の娘とまでは思わなかった。

 よほど一大決心するほどのなにかがあって家出を敢行したのだろうか。

(あんまり期待されても困るんだがな)

 高級店は客を見る。

 ジャックの持っている服の中ではまともな格好をしているとはいえ、この服では中にも入れてはもらえない。

 だが味は保障できるところに連れて行くつもりだ。

 ニースはやさしい女性だから、きっとおいしくなくてもおいしいですと言ってくれるだろう。

 だから心から言わせてやりたいと思う。

 ニースの笑顔を思わず思い浮かべて、ジャックは自分であきれる。

「何やってんだか、俺は」

「すみません、ジャックさん」

 階段をとんとんと下りて、ニースが下りてくる。

 ニースは黒い髪をきれいにまとめて結い上げていた。

 若草色の落ち着いたドレスを着たニースはいつも以上に愛らしく見えた。

 ジャックは思わずぽぉっと見とれてしまう。

「お、おかしいでしょうか」

 ニースが不安そうに自分の格好を見回す。

 ジャックは思い出したようにふるふると首を振った。

「い、いや。その、なんだ、だから……」

 ジャックが片手で口をおおう。

「きれいだと、思う」

 小さなくぐもった声でつぶやく。

 ニースは花がほころぶように微笑んだ。

「よかった」

 ジャックは立ち上がると、すっと腕を差し出す。

 自然なそれにニースも腕をからめた。

 その行動に、ニースはふと違和感を感じる。

(あれ?これって……)

 普段慣れ親しんだ行動に、ニースはあらためてジャックが本当に隣国の元将軍なんだと思った。

 あの将軍はたしか、貴族だったはずだから。

「そんなにめかしこまなくてもよかったのに。めちゃくちゃ期待されると、ちょっと困るかな」

 宿を出て暗くなってきた夜道を歩きながらジャックが口を開く。

 それでニースははっとわれに返った。

「ジャックさんが誘ってくれたんですもの。どんなところでもきっと楽しめます。とっても楽しみです」

 ジャックは頬をぽりぽりとひっかく。

「そんなに期待してくれると、うれしいというかなんというか。というか、俺あんまりまともな格好してないんだけど」

 清潔感ただようこぎれいな格好ではあるが、正装ではない。

 ニースはふるふると首を振る。

「格好なんて、気になりません。ジャックさんはジャックさんですもの」

「そうか?」

「ジャックさんが教えてくれましたよ」

「そうだったっけ?」

「はい」

 宿から程近いところに、ガス灯で明かるく照らされているきれいな店があった。

「ここここ。けっこううまいんだ」

「楽しみです」

 戸を押して開けると、ジャックはニースを先に中へとうながす。

「ありがとうございます」

「いいや」

 ニースが入ってから、ジャックも中へと入り戸を閉めた。

「ああ、ジャック」

 バーカウンターにいたマスターらしい男がジャックに気づいて手を上げた。

 ジャックは話をつけてあるらしく気安く話しかけている。

「頼んでおいたやつ、頼むわ」

「おお。にしてもジャック。次からは身ぎれいにしてから来てくれよ?」

「わりぃわりぃ。急だったもんで」

「急ぎはかまわねんだが、血まみれでレストランに来るんじゃねえ。裏口とはいえ、あんまりいいもんじゃねえだろっ!」

「だから悪かったって。今度から気をつけるよ」

 じろっとジャックに鋭い視線を送って、マスターがあごで奥を示した。

「奥に席を用意しておいた。行け」

「ありがとうございます」

 ジャックに代わってニースがぺこりと頭を下げると、マスターが目をみはった。

「えらいべっぴんさんを連れてるじゃないか」

 ジャックはにやりと笑ってみせる。

「俺の大事な相棒だ」

「おまえさんが相棒ね。めずらしいこともあるもんだ」

「そういうわけだから、いつも以上に気張ってくれ」

「あいよ」

 奥まったところにある落ち着けそうな席について、ニースはジャックを見上げる。

 前もって頼んであるらしく、席に着くと同時にワインが持ってこられる。

 白いワインがそそがれるのを、ニースはぼんやりと見つめていた。

 ニースは思い切って、気になっていたことを訊ねる。

「ねえ、ジャックさん」

「うん?」

「大丈夫なんですか?」

「なにが?」

「その……」

 言いにくくてニースは口の中でもごもごとつぶやく。

 あの日、ニースが夜中に起きた日はジャックは夕飯どころじゃなかったし、風呂を出てからも結局は何も食べなかった。

 うれしくてうれしくて、一人で浮かれていたけれど、ジャックのことを考えていなかったのかもしれない。

 ジャックはニースの言いたいことを察して、笑みを浮かべた。

「平気だ。なぜだろうな、今日は気分が良いんだ」

 ジャックはゆっくりと瞳を閉じる。

 ニースはぱちぱちとまばたく。

「不思議だな。というか、最悪か。俺の手によって命を奪われたやつがいたっていうのに、俺はのんきにディナーか」

「ジャックさん……」

 ニースは言葉をさがして、口を開く。

「でも、今日の相手は強盗だったんでしょう?強盗って、暴力で相手から金品を略奪し、あまつさえ命まで奪うこともあるんでしょう?報い、なのかも」

 自分でもおどろくくらいに冷たい声が出た。

「報い、か。ということは、いずれ俺も報いを受ける日が来るのかな」

「ジャックさんは!たくさんの人を守ってきたんでしょう?」

「どうかな。見方によるんだろう。守ったものもあるかもしれないが、俺はたしかに奪ったものも大きい」

 ジャックは目を開いて、小さくかぶりを振った。この話は終わりとでもいうように。

「悪いな、辛気臭い話をして」

 ウェイターがオードブルの乗った皿を持ってくる。

「乾杯でもするか?」

「何に乾杯しましょうか」

「そうだな。じゃ、ニースに引き合わせてくれた神に、とでもしておくか?」

 ニースはくすくすと笑った。

「ではわたくしはジャックさんに預けてくださったボブさんですか?」

 ジャックが複雑な顔で眉間にしわを寄せた。

「……それはやめとけ。ありがたがるもんでもないし」

「そうですか」

「ま、理由つけなきゃいけないもんでもないよな」

「そうですね」

 二人はグラスを持ってこつんとグラスを合わせる。

 高いチィンという小気味よい音が鳴った。

 少し口をつけて、ニースはオードブルの方を食べ始める。

 ナイフとフォークで上品に食べるニースを見ながら、ジャックは目を細めた。

「わぁ、おいしいです」

「そうか、よかった」

 ジャックが幸せそうに笑う。

 ニースはそのジャックの顔を見てぱあっと顔を染めた。

「ニースがふだんどんなにいいものを食べていたのかは知らないが、けっこうここのもいけるだろう?」

「特別良いものを食べていたわけではありませんよ。でも、ここのは本当においしいです」

 ジャックと、いっしょに食べているからだろうか。

 ニースは心の中でそう思う。

 ジャックは知っているのかどうか、うれしそうに笑みをはく。

「その顔が見たかったんだ。ニースには世話になってるからな。たまには俺も、喜ばせてやりたかった」

 ニースは手を止めて、小さくつぶやく。

「いつも、喜ばせてもらってますよ」

 ジャックと出会ってからのこの十一日間、小さなことで一喜一憂して、楽しませてもらった。

 こんなに言いたいことを言ったのも、わかってもらおうと努力したのも初めてだった。

 オードブルの後、白身の魚のムニエルが出て、牛肉のソテーが出てと、久々にたくさん食べた気がする。フルコースとまではいかなくても十分だ。

 それなのに、おいしいのに、いつのまにか目の前のジャックが気になって食事どころではなくなっていた。

 ジャックは男性にしてはそれほど食べないというのも、ここで初めて知った。

 時間が合わなくてほとんど一緒に食べることがなかったのをいまさらながらニースは思い出していた。

 その前といえば、ジャックはずっとふせっていたためろくに食べていなかった。

「本当に、赤い悪魔さんなんですか?」

 意外なほどに上品に食べているジャックを見て、ニースは思わずぽつりとつぶやいていた。

 ジャックが怪訝に顔を上げる。

「は?何か言った?」

 聞こえていて聞こえないふりをしているのか、本当に聞こえなかったのか、ニースには判断できなかった。

「……わたくし、わたくし、ジャックさんに聞いてほしいことがあります」

 ゆっくりと、ジャックの手が止まる。

 聞く態勢になっているジャックに、ニースはどこまでもまじめな人だと思いながら口を開く。

「わたくしには、婚約者がいました」

 ジャックがピクリと身動きをした。

「ふうん」

「家を出た日、その日も彼はやってきていたんです」

 ジャックはだまっている。

 言葉をさしはさまないのは、先をうながしているのだろうか。

 ニースはきゅっとドレスをにぎりしめた。

「わたくしは、今思えばたぶんその方を好きではなかったのだと思います。別に嫌ではなかったけれど、父の命でその方といっしょになるのだとぼんやりと思っていただけでした」

 そもそも、それがまちがいだったのだろうか。

 いやだと言えば、父も母も聞いてくれたのだろうか。

 それを試さなかったのは、ニースだ。

「わたくしの前では、思いやってくださるやさしいかたでした。でも本当は、わたくしのことなんか見てはいなかった」

「ニース……」

「わたくしではなく、わたくしの面倒を見てくれるメイドと通じていました。わたくしは、彼に名誉と地位をもたらす、ただの飾るためのお人形としか見られていなかった」

 ぎゅっとニースはくちびるをかんだ。

「うらむ気持ちはありません。もっとわたくしがしっかりしていれば、またちがった未来があったのかもしれない。でも、わたくしはふがいなく情けない自分が悔しかった」

 ジャックが身を乗り出してすっと指を伸ばす。

 ちょんとくちびるに触れて、ニースはおどろいてぱっとかんでいた歯を離す。赤くなったくちびるを、ジャックが人差し指でなでた。

「うん。でも、俺が会ったときにはすでにけっこう気が強そうにみえるお嬢さんだったけどな」

「ジャックさんったら!」

「俺は別に悪くはないと思うぞ」

 すっと手を離して、ジャックはいすに座りなおす。

「それで?ニースは、俺の問いに対する答えを見つけたんだな」

「ええ」

 ニースはウェイターが持ってきた紅茶をじっと見つめる。

 湯気をたてる紅茶を見てから、ニースは真剣な顔つきでジャックを見据える。

「ジャックさん。わたくし、帰ります」

 あらかじめ答えがわかっていたように、ジャックはこくりとうなずいた。

「うん」

「わたくし、婚約を解消してもらうために、帰ります」

「……うん?」

 ジャックの返事の語尾があがる。

 予想とちがう言葉がニースから出てきたからだ。

「もう逃げません。あんな人、こちらから願い下げです」

 二番目なんて、絶対に嫌だ。

 ニースにとって一番で、相手にとっても一番でありたい。

 ゴードンにとっては二番目ですらなかった。

「わたくし、帰ってまじめに勉強します」

 領地を父から継ぐために。

 あまり身を入れてやっていなかった勉強を、やり直したいと思う。

「それで、ジャックさん。わたくしといっしょに学んでくださいませんか?」

 ジャックがじっとニースの黒い瞳を見つめる。

 青と黒が交錯する。

「わたくしを支えてくれませんか?そして、わたくしにも支えさせてください」

 あなたの心と、身体を。

 ジャックがかあっと赤くなって、がしがしとその顔よりも赤い髪をかきまぜる。

 照れくさいような困ったような、複雑な顔でカップの中の茶色い液体に視線を落とす。

 どう考えても、プロポーズだろう。

 告白とか、交際とかすっ飛ばしていいのだろうか、とも思ったりする。

 その上、女性にそれをさせてしまっている。

 いたたまれない。

「えと……」

「困惑するのも、もっともだと思います。わたくし、家に帰ります」

「え?」

 ぱっと顔を上げると、ニースが持っていたかばんから小さな袋と紙を取り出した。

「これ、わたくしがギルドで働かせていただいてもらったお金です。足りないとは思いますが、お世話になったお礼に差し上げます」

「え、ちょ、ちょっと……」

「それから、これはわたくしの家の住所です。よろしければ、訪ねてきてください」

 待っています、とは言えなかった。

 ニースは立ち上がると、優雅に礼をして店を出て行く。

 ジャックはというと、理解するのに時間がかかって固まったままだ。

「おやおや、尻すぼみのかっこ悪いデートだったな」

 マスターがわざわざテーブルまでやってくる。

 ジャックが苦虫をかみつぶしたような顔でマスターに振り返る。

「うっせえよ」

「おまえさんより男らしいお嬢さんだな」

「最初は、うつむいているか泣いているかどっちかだったんだ」

「すぐ倒れたって聞いてるぞ、よく言う」

「…………」

 ふてくされたようにジャックは紅茶をあおった。

 マスターはニースの置いていった紙を取り上げて、目をみはる。

「これはまた、やっかいなお嬢さんだ」

「は?」

「この町の領主殿の娘御だ」

 マスターがジャックの方に紙をよこす。

「……知ってる」

 ジャックはさきほどギルドで聞いたことを思い出していた。

 ここでのことも見られているのだろう。おそらくは領主の耳に入るはずだ。

 マスターが今の今までニースの座っていたいすにこしかける。

「それで、おまえさんどうするんだ?」

「どうするって……」

「またそでにするつもりなのか。カスティリア王女のように」

 ぎろりとにらみつけるが、マスターはまったく気にしていない。

 ジャックははあっとため息をもらした。

「姫は……別だ」

 主の娘になど、手など出せるはずがない。

 そのときの国のムードもカスティリアとジャックの婚姻を求めるようなムードだった。

 だからこそ、王への忠誠を示すためにもカスティリアには悪いが断る必要があった。王位など狙ってはいないことを、身の潔白を証明するために。

 よくよく考えれば、王が信じる信じないは別にしてすでに民の中で大きくふくらみすぎていたものをなんとかするためには、ジャックは邪魔になっていたのだろう。

「あのときは、裏切られたと思ってたが、とうの昔に俺は邪魔者だったんだな」

 それをあそこまでかばっていたのは、王だったのかもしれないし、ポールだったのかもしれない。

 今となっては、わかるはずもない。

「だが、俺はすでに死んだ身だぞ。どう考えたって―――」

「つりあわないって?それでカスティリア王女も振ったんだろう?」

「……ニースは、俺にはもったいなさ過ぎるんだ」

 あんなにやさしくて思いやりがあるのだ。相手のことを親身になって考えてやれる。幸せになるべきなのだ。

 だからなにも殺されたはずの男にしなくても、もっといい相手が見つかるはずだ。

 それに、領主ということは貴族だ。体面だって大事だろう。捨てた名が使えない以上、どこの馬の骨ともわからない相手を認められるとは思えない。

「俺よりもっといい男が……」

「だが、お嬢さんはおまえさんを選んだ」

 ジャックの言葉をさえぎり、マスターが告げる。

 ジャックがはっと顔を上げる。

 マスターはぽんとジャックの肩に手をおいた。

「一晩、よく考えるんだな」

 マスターはゆっくりと手を離すとテーブルを離れていく。

 ジャックは紙に目を落とす。

 流麗な文字で住所が書かれた後にはこう書かれていた。


 

 明日、両親に話します。

 よろしければ、我が家を訪ねて来てください。

あなたの相棒 ニース・エラーナ

          

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