エピローグ
何冊もの本を持って、ニースはよたよたと歩いていた。
父伯爵の領地を治めるための講義が始まったのはニースが家へ帰ってきた翌日からだった。
父と娘ではなく、先生と生徒として扱われるので特別扱いはなしだ。厳しい授業だが、学べるものも多い。
ふらふらと危なっかしく歩いているニースの荷物が軽くなる。
横から伸びた手が、本をひょいと持ち上げた。
「重そうだな、ニース」
「ジャックさん!」
伯爵の用意した服に身を包んでしまえば、貴族の子息でも十分通じる、上品な雰囲気をかもし出している。
これには伯爵夫人もおどろいたものだ。だが、まだまだ認めるまでにはいたっていない。
なに、これからさ、とジャックが余裕でいてくれるから、ニースも安心していっしょにいることを夢見ていられる。
ニースはうれしそうにジャックの横に並んで歩きはじめる。
「これから勉強か?」
「はい。ジャックさんは?」
「俺は……俺も勉強か」
どこかだるそうにジャックは遠い目をする。
「なんの勉強ですか?」
「作法とマナーとこの町についての勉強」
ニースよりも多い。
ニースは眉根を寄せた。
「……けっこうきついですね」
「ああ……」
ジャックはため息をもらした。
まさかもう一度一から礼儀作法とマナーを叩き込まれるとは、思ってもみなかった。
あの伯爵もやってくれるものだ。
「おかげで剣にもさわれないし、身体がなまってしかたがない」
「剣、ですか?」
ニースがわずかに眉をひそめる。
あんなふうになるのに、剣が好きなのかと問いたげだ。
ジャックは苦笑した。
「俺は武術としての剣は好きなんだ。戦で使う剣は好きじゃないが」
「ジャックさんは身体を動かすのが好きですのね」
「ああ。机にかじりつくよりは、そっちの方が好きだな」
「本を読むのはお嫌いなのですか?」
「いいや。本も嫌いじゃない。けど、やっぱりほどよく身体も動かしたいな」
「では、時間を作れるように努力なさいませ」
背後からぬっと現れた作法の先生が細いめがねを押し上げる。
げっ、と小さくジャックがつぶやいたのを、ニースはもちろん作法の先生も聞こえていた。
「ジャックさん」
びしっと背筋を伸ばして、ジャックは答えた。
「はいっ!」
「ジャックさん、お嬢さまにつりあう殿方になってくださいね。早く」
早く、という言葉をことさら強調して、先生が告げる。
「はい」
うんざりとしながらジャックが答えた。
くすくすとニースは笑う。
「笑うなよ」
「だって」
「俺は真剣だぞ」
「大丈夫ですよ、ジャックさん」
にっこりとニースはどこからわき出るのかわからない自信でもって告げる。
「そうか?」
「はい」
「さ、行きますよ、ジャックさん。だんなさまと奥さまにくれぐれも頼んだと言われていますので」
先生がジャックの腕を引く。
ニースは本を受け取ろうと手を伸ばす。
ジャックがニースに本を渡した。
「悪いな、持って行ってやれなくて」
「大丈夫です。それよりも、午後の紅茶の時間には出られるように、がんばってください。わたくしもがんばりますから」
「うん」
しごくまじめにジャックがうなずいた。
数少ない二人でいっしょにいられる時間を、二人は大事にしていた。
「では、後ほど」
「おう、あたっ」
べしりとハリセンでたたかれて、ジャックは引きつった笑みを浮かべた。
やり直しとでも言いたげな先生の怖い視線にジャックはこほんとせき払いを一つした。
「午後の時間をご一緒できるのを楽しみにしています、ニース嬢」
「ええ」
なんだかいつものジャックとはちがう。それがニースにはおもしろくもある。
困ったように笑って、ジャックは先生に引っ張っていかれる。
ニースはくすくすと笑っている。
本当は、ジャックがもともとは貴族であるのをニースは知っている。
(でも、気づいていないことにしましょう)
軍人として男所帯にすっかり慣れてしまったのか、それとも町の空気に染まったのか。
ジャックはときおり貴族らしさを感じる以外は、すっかり庶民じみている。
けれど一度身につけているものだし、ジャックとてだまっていれば十分貴族でも通じる品を感じられるのだ。きっとすぐにつけなおせるだろう。
(がんばりましょうね、お互いに)
早く二人がいつでも並んで歩けるように。
ニースは微笑みを浮かべて、父の部屋に足を向けた。
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