5.心近づけて
すっかり夜も更けたころ。
気持ちよく眠っていたが、勢いよく水を流している音にふいに意識が浮き上がっていく。
「げほっ、げほっごほっ!」
ニースは激しくせき込む声にうっすらと目を開ける。
「はあはあはあ、はあ……はあ……」
荒い息遣いが遠くから聞こえてくる。
テーブルに置かれたランプの明かりの向こう、洗面台に手をついて男の後姿が見えた。
ニースは片腕をベッドについて身を起こした。
「ジャックさん?」
洗面台のところにつけられた鏡越しに、眉間にしわを寄せたジャックと目が合った。
「ニース……わりぃ、起こしちまったか?」
「いいえ……」
ニースは寝巻きの上に枕元においていたガウンを羽織って、ベッドから抜け出す。
「悪い……起こすつもりじゃなかったんだ」
「大丈夫ですか?」
「ああ……」
まだ荒い息のジャックは洗面台についた手でかろうじて身体を支えているようだった。
つんと鼻につくすっぱいような独特のにおいと、それを上回る鉄のようなにおいが部屋にこもっている。
ニースは眉をひそめる。
窓に視線を移すと、いちおうカーテンがゆれているところを見ると、窓は開けられているようだった。
「血のにおいがします」
「ああ。俺の血じゃない」
「人を、斬ったんですか?」
「襲ってきたから、斬らざるをえなかった」
「行商の護衛だと聞きました」
「ヒューのやつめ」
ちっとジャックが舌打ちをした。
ランプの明かりに照らされたジャックは返り血で真っ赤になっていた。
ニースは思わず顔をしかめる。
鏡越しにそれを見て、ジャックが苦笑した。
「いくら俺でも、このまま寝たりしない。風呂入ってくるから、おまえは寝てろ。窓は俺が閉めるから」
ジャックは洗面台から離れて戸へと向かう。
そのジャックを手を引いて、ニースが止めた。
「ジャックさん」
「なんだ。さわるなよ。おまえも汚れるぞ」
「いつもそんなふうになるんですか?」
下から見上げるジャックは、青い瞳がまるで凍りついているかのように見えた。
「…………」
「ジャックさん。人を傷つけるたびに、もどしているんですか?」
「じゃあやるな、ってか」
へっとジャックが自嘲するように笑った。
「たしかにその通りだな」
「じゃあなぜ?」
「やらざるを得ないから。金のために」
「そんなことをしなくても、お金は手に入れられるんでしょう?」
「傭兵である以上、仕事のえり好みなんかしてられないんだ」
「今日は選んだんでしょう?」
ジャックのうつろだった視線がニースに向けられた。
「剣を扱うのに、かっこ悪いな」
ニースは真剣に首を振る。
「きわめて当然な反応ではありませんか」
「……しょせん剣は傷つけるものだ。慣れるべきなんだろう」
「本当は慣れる必要なんてないんだと思います。普通の人の、当然の反応です」
「だが、俺は……」
ジャックは手で口元をおおう。
静かな呼吸からすでに落ち着いているのはわかっている。
「わたくしは、ジャックさんがかっこ悪いなんて思いません。むしろ、うれしいかもしれない」
怪訝にジャックがニースを見下ろす。
「なんで?」
ニースはにっこりと笑った。
「ジャックさんにも弱いところがあるんだってわかって、ほっとしました」
「…………」
「人を傷つけることに慣れていなくて、よかったと思います。慣れてなんてほしくないです。仕方のないことと、片付けてほしくないです。それって、感情のどこかが壊れかけているのではないでしょうか」
「ニース」
「慣れるしかない環境も、あるかもしれません。でも、そうなってしまったら、よほど強く自分が律せる強い人でないと壊れてしまいます。狂っているのと、そうでないののちがいがわからなくなってしまうから」
ニースはジャックの身体をニースに向けさせる。
「心を切り替えないと、人を傷つけられませんから。自分を守るために」
自分の心が傷つかないように。
罪悪感など抱かなくてもいいように。
ニースはジャックの手をきゅっとにぎりしめ、ニースの頬へと移動させる。
「ジャックさんは、わたくしをモノだと思いますか?」
「いいや」
「今日の野盗さんたちをモノだと思いましたか?」
ジャックはきゅっと眉根を寄せた。
「……いいや」
だから苦しい。
罪悪感がなくならない。
何が理由であったとしても、だれかの命を奪ってきたから。
ニースは聖母のように微笑んだ。
「それがわかっているあなたは、どこも壊れていません」
「だが、痛くてしょうがない」
心の無理がたたって、身体にまで変調をきたしてしまう。
「お風呂で洗い流してきてください」
身体の汚れも、心の汚れも。
温かい湯は、やはり少しでも心をあたためてくれるから。
その心を癒すのはきっとニースの役目だ。ニースのふとすると重くなっていた心を軽くしてくれたのは、ジャックだから。
今度は、ニースの番。
「わたくし、待っていますから」
「……ニース」
「いってらして?ちゃんと、待っています」
「……うん」
ジャックが壊れものを扱うようにニースの頬に触れて、そっと手を離した。
「ニース」
思い出したようにジャックが振り返る。
「なんでしょう」
ジャックはついっと視線をそらして、再びニースに合わせた。
「俺は、今のお前の方がいいと思う」
「え?」
「うつむくなよ。自分の意見を飲み込むな。何も言えないでいるおまえより、今みたいに思っていることを言えてるおまえのほうが、好きだ」
それだけ、ときびすを返してジャックが部屋から静かに出て行った。
ニースはランプに照らされて赤いほおを両手で押さえた。
ジャックがふれたところが熱かった。
翌日も、ニースはヒューのところに来ていた。
ジャックはというと、朝早くから仕事に出ている。
一晩手をつないで寝たら、すっかりいつものジャックに戻っていて、ニースの方が拍子抜けしたくらいだ。
本当は一日ゆっくり休んでほしかったが、
「今日の仕事は昨日みたいに危ないものじゃないから平気だ」
と言い切るジャックに押し切られてしまったのだ。
ジャックが弱くなっているときはニースの方が強いが、いつもの弱気なニースのときにはジャックの方が強い。
だからニースはなんとか今日は待っていると言い張って、ギルドで仕事をしていた。
昼を少し過ぎたくらいか、ニースは窓の外をチラリと見て思った。
「おなかすいた?」
「そうですね」
「じゃ、ちょっと休憩にしよう」
ここよろしくね、と同僚に声をかけてヒューはニースを連れ立ってギルドの奥へと引っ込んでいく。
昼食も支給されるのが、この仕事のいいところだ、とヒューが告げた。
「ニースちゃんはなに食べたい?」
「そうですね。お任せします」
「そう?でも、ニースちゃんがどうしたいか聞いておきたいんだけど」
「ええと……じゃあ、軽くしていただきたいです」
「今日はジャックは早いんだったっけ?」
ニースがその言葉に大きくうなずいた。
「はい!今日は商人さんの家の護衛だって言ってました」
「ああ、あの豪商のマルター家か」
「今日は定時に終わるから、夕食を一緒に食べようって言ってくれました!」
「じゃ、軽くしておくか」
ヒューがサンドイッチを二人前、取って来る。
席についても夜のことを考えて、すっかり浮かれているニースにヒューが苦笑する。
「ニースちゃんはジャックが好きなんだね」
「え?!」
ニースの顔が一瞬にしてかあっと赤くなる。
「そ、そんな、わ、わたくし……」
「照れてる〜」
ヒューはおもしろそうに目を細める。
ニースはごまかすようにサンドイッチに手を伸ばしてぱくぱくとぱくつき始める。
「ニースちゃんって、わかりやすいねぇ。すぐ顔に出る。ま、ジャックもわかりやすいっちゃわかりやすいけど」
「ジャックさんも?」
そうだっただろうか。
あまり顔をじっと見つめていられなくて、見ていなかったことにニースは気づいた。
「あれはまちがいなくニースちゃんのことを意識してるよ」
「で、でもジャックさんはしかたなくわたくしの面倒を……」
「最初はそうだったかもね。でも、今はちがうと思うよ。ニースちゃんのこと、大事にしてるもん」
「でもわたくし……」
はっとニースは言葉を飲み込む。
ニースには、ゴードンといういちおうあれでもれっきとした婚約者がいる。
今でははっきりとわかる。
(わたくしは、彼を好きではなかった)
ただ、決められていたからしたがっていただけ。
何一つ、自分では決めていなかった。
父の、母の、ゴードンの、メイドたちの顔色をうかがって、彼らの望む行動をとるようにしていなかったか。
そうしなかったのは、ジャックとだけだ。
ジャックにだけは、自分の思いを告げていたような気がする。
「いつもとちがう環境にいると、自分の殻を割れるのかもね」
ニースの考えを読んだように、ヒューがつぶやいた。
両手を合わせてごちそうさまと言ってヒューは皿を片付ける。
ニースはあわててサンドイッチを片付けた。
「あわてなくていいのに」
くすくすとヒューが笑う。
「いいへ!」
ニースはもぐもぐと口を動かしながら首を振る。
ニースも一緒に皿を片付けようと立ち上がる。それをひょいとヒューが受け取った。
「これくらいやるよ」
「ヒューはん」
「とにかく、それ食べちゃいなよ」
くくくっと笑って、ヒューが皿を食堂のおばちゃんに渡した。
口の中のものをもきゅもきゅごっくんと飲み込んで、ニースはヒューを追った。
「すみません」
「いいよ」
ヒューともと来た道を戻っていくと、ばたばたとギルドの中が騒がしくなっていた。
あわただしく走り回るギルドの職員と列をなして並んでいる傭兵たちがざわざわと騒いでいる。
ヒューは近くにいた職員に訊ねる。
「どうしたの?」
「マルター家に強盗だって!傭兵が足りないって応援要請だ!」
音が一瞬遠のいた。
ニースの顔色が変わる。
ざっと血の気の引いたニースを見て、ヒューが両手でがしっと肩をつかんだ。
「しっかりするんだ、ニースちゃん」
「だ、だって、ジャックさんが!」
「ジャックは強い。ま、怪我くらいはあっても死ぬことは絶対にないよ」
「そんなの、だれにもわからないじゃないですか!」
「わかるよ!」
ヒューの思いがけない強い口調に、取り乱しかけていたニースはピクリと身を動かす。
「どう……して?」
「…………」
ヒューは苦しそうに顔をしかめて口をつぐむ。
「どうして、ヒューさん」
「……ジャックは、だれもが知っている英雄だから」
「え?」
「国のために利用されて、国のために切り捨てられた、歴史の闇に葬られた悲劇の英雄。それが隣国の赤い悪魔、ジャック・オーソン」
赤い悪魔―――それはニースも聞いたことがある。
返り血を浴びて真っ赤に染まることからつけられた赤い悪魔。隣国の英雄、オーソン将軍。
それが、あの青年だと?
ニースは弱弱しく首を振った。
「うそよ……」
「うそじゃない」
「だって、オーソン将軍は国境紛争を収めに行った際に亡くなったって」
「そう。部下に、王に裏切られ、殺された英雄。公然の秘密だ。だからこの国の民も隣国の民も知っている。殺された、存在しない英雄を。あの人柄だからな、民はあいつの方についていく。王が恐れるのもしかたがなかったのかもしれない」
だれもが知っていながらだれも隣国に引き渡そうなどとしない。本人がどこまで気づいているのかは知らないが、民衆は彼のことを好いているのだ。
だからこそ血だらけで倒れていた青年をアネット医師は救った。かつぎこんできた必死の顔の民のために。
「ジャックが……?」
「そうだ。だから、ジャックが死ぬことはまずない」
ニースは混乱してきた考えをまとめるように、めまぐるしく頭を働かせる。
では開いた傷とは、そのときの―――殺されそうになったときの傷なのだろうか。
ニースは眉をひそめる。
あんなに、苦しんでいるのに。
人を傷つけることに対してあんなに拒絶するほど苦しんでいるのに、なのに隣国を数々の戦から救ってきた英雄だというのか。たくさんの敵兵を無情に切り捨ててきた、赤い悪魔だというのか。
「ジャック……」
いつまでたっても、ジャックは救われないのだろうか。
いつまでも剣とともに歩むしかないのだろうか。
きゅっとくちびるを引き結んで、ニースは来た道を戻っていく。
「ニースちゃん?」
何がしたいのかわからず、ヒューがぱちぱちとまばたく。
やがてあるものを持って戻ってきたニースは軽くあがった息のままヒューを見上げた。
「その、マルターさんの家って、どこですか?」
「ちょっと、ニースちゃん、なにそれ?」
ヒューはじっとニースの持ってきたものを見つめる。
ニースはいっしょに持ってきたらしい包みでそれを包み込む。
「教えてください、ヒューさん」
「ちょ、ちょっと待ってよ、ニースちゃん」
「行かなくちゃ!」
「ニースちゃんが行っても、何もできないよ?!」
「行ってみなくちゃわかりません」
真剣な顔でニースはじっと見据える。
進退きわまって困り果てていたヒューの背後に人の気配がした。
「おれが連れてってやるよ」
ヒューを押しのけて、巨漢が現れる。
「ボブさん」
「そのかわり、おれのそばを離れんなよ?嬢ちゃんになにかあったら、おれがジャックの野郎に殺されちまうからな」
ボブがにやりと笑う。
ニースは口元に笑みをはいて、うなずいた。
ヒューは額に手をあててあきれ果てる。
「ったく、知らないぞ」
何ができるかわからない。
何もできないかもしれない。
だが、なにもしないでなんていられない。
これからは自分で決めようと決めたのだ。
「行きましょう、ボブさん」
ニースは駆け出していた。
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