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3.穏やかな時間
ニースはベッドに寝かされたジャックの手をにぎって、いすにかけていた。
暗かったから、気づかなかった。
そんな怪我をしていたなんて。
「もっと早く気づいていれば……」
ニースはジャックの手を両手でにぎったまま、それを額に当てる。
あんなに近くにいたのに、わからなかった。
少しもそんなそぶりを見せてはくれなかったから。
「ごめんなさい……」
がちゃりと、とびらがあけられて白衣の女性が入ってくる。
大きなかばんを持った女は振り返ったニースを見て、片眉をはねあげた。
「あんた、ジャックの女?」
「ええと、ちがうと思います」
「そ」
興味を失ったように、女医はニースの横に立って、ジャックをぎろりとにらみつけた。
「ったく、バカが!」
思いもかけない言葉とその強さに、びくっとニースが身を震わせる。
「あんたってやつは毎っ回毎回、あたしが縫ってやったってのに傷開きやがって!あんっだけ動くなっつってんのに、あたしの忠告は無視かい!」
女医はどんっと勢いをつけてかばんを置いた。ベッドが激しく揺れた。
「タオル、これでいいかい?水は部屋に通ってるから。お湯も用意したよ」
女将が両手いっぱいにタオルを抱えてやってくる。下働きの男が湯気の出たやかんを持ってくる。
「ありがとよ。いつも悪いね」
「いつものことだからね」
女将も当然のようにうなずいて、後は任せたとばかりに部屋を出て行く。
女将の出て行ったとびらと女医を交互に見て、ニースはもう一度女医を見上げた。
「わたくしも邪魔ですか?」
チラリと、女医がニースを見て、
「邪魔じゃないが、見ておもしろいもんでもない。外で待ってな。終わったら呼んでやる」
「はい」
ニースはジャックの手をぎゅっとにぎりしめた。
「ジャックさん、がんばって」
「ちょっとくらい痛くてもいいんだよ、こいつは。ちっともこりないんだから」
女医はなんてことないようにふんと鼻を鳴らす。
ニースは重い腰を上げると、名残惜しそうにちらりと振り返って、ニースは部屋を出た。
ばたんと戸を閉めて、ニースは戸に背を預けたまま、ずるずると座り込む。
「神さま……」
ニースは組んだ両手を額に押し当てる。
どうか、彼を守ってください。
どのくらい座り込んでいただろうか。
場所を変えて、廊下の壁に背を預けてひざを抱えていたニースの前のとびらが開いたのは、ニースが座り込んでからだいぶたってからだった。
かちゃりと開いたとびらの音に、ニースがはじかれたように顔を上げる。
「あんた、ずっとそこに座ってたのかい?」
女医がおどろいたように目を丸める。
「ジャックさんは?ジャックさんはだいじょうぶなんですか?」
「ああ。だいじょうぶ。終わったよ」
「よかったぁ……」
ニースはほっと安堵の息をはいた。
「あんた、ジャックの連れかい?」
女将がそう訊ねたときに、ジャックもたしかそう言っていたのを思い出してニースはうなずいた。
「はい」
「そうかい。じゃ、ちょっと来てくれ」
女医が部屋に戻っていく。
ニースは立ち上がってその後に続く。
部屋の中はかぎなれない薬品のにおいと消毒液のにおいで充満していた。
白衣のポケットに手をつっこんだままの女医は、ベッドサイドに立った。
腹部を大きく包帯に巻かれたジャックが寝かされていた。上半身とはいえ、まともに男性の裸を見たことがないニースはぱっと顔を赤らめてそっと視線をそらした。
女医はそんなニースに気づいておらず、かばんを探っていた。
「痛むと思うんだ。だから毎食後、必ずこの痛み止めを飲ましてやってくれ」
かばんから取り出した錠剤を、ニースに手渡す。
「あと、今度こそしばらくは絶対安静だ。ま、失血していたみたいだから起き上がれないとは思うけど。一応、ベッドに縛り付けてでも最低でも一週間は寝かせておいてくれ」
「一週間でいいんですか?」
「本当は一カ月は寝かせておきたいんだがね。このバカは絶対に聞きゃしない。だから一週間は寝かせておいてくれ」
「わかりました」
ニースは神妙にうなずいた。
「ま、しばらくは起きられないだろうから、ほっといていいはずだ」
ふうっとため息をもらして、女医はいやそうに顔をしかめる。
「ったく、これで三度目だ。同じ傷を三度もあたしに縫わせやがって」
「え?」
聞き返したが、女医はふるふると小さく首を振っただけだった。
「嬢ちゃん、こいつのこと、頼んだよ」
女医はそう言い残してかばんを手にすると部屋を出て行った。
とびらが閉められて、ニースはベッドサイドに置かれたいすに腰かけた。
鮮やかな赤い髪が汗で額にはりついている。
ニースはそれを指で払ってやる。
寝苦しそうなので、ニースはサイドテーブルの上のボールの中でタオルをしぼって顔を拭いてやる。
こうして見ると、ジャックは端正な顔立ちをしている。
だまっていれば、上品な顔立ちだ。
なのに、傷が開くような行動を三度もとるようなひとだ。
「変わった人」
ニースが小さくつぶやいたと同時に、部屋の戸がノックされた。
「嬢ちゃん、おなかすいただろう?少し持ってきたよ」
女将がトレイに夕食を載せてやってくる。
「あ、ありがとうございます」
「嬢ちゃん、こっちで食べな。ジャックのやつはしばらく起きないから」
「はい」
ニースはテーブルの方に移る。
先ほどジャックが座っていたいすは女将が階下へとしまいこんだ。ニースはもう一つのいすに腰掛ける。
「嬢ちゃんも災難だったね。あいつ、こんなのばっかりだから」
「いいえ」
「あ、ごめんよ。食べておくれ」
女将が勧めるので、ニースはいただきますと両手を合わせる。
フォークを手に、サラダを食べ始める。
「ジャックにつけておくから、嬢ちゃんは気にせずに滞在していいからね」
チラリと気にしたようにジャックに視線を向けると、女将が苦笑した。
「だいじょうぶだよ。気にしてなんかられないだろ?嬢ちゃん、お金持ってるのかい?」
「あ……」
「だろう?だいじょうぶ、ジャックに看病代でもつけておきな」
ニースは戸惑うように困った顔をする。
「嬢ちゃん、そういえば名前は?」
「ニースです」
「ニースちゃんかい。ニースちゃん、ジャックとはどこで会ったんだい?」
「ええと、道で。迷子になって困っていたところに来た大きな男の人がジャックさんに」
「ははあ。ごつくて、怖そうな顔の男だね?」
女将の問いにニースはためらいなくうなずいた。
「なるほどね。ボブがジャックに引き合わせたのか」
「たまたまジャックさんが通りかかったところにその、ボブさんが押し付けていったといいますか」
「ジャックは押しに弱いわけじゃないから、本当にいやなら引き受けたりしないよ。まあお人好しではあるけどね」
女将がニースの向かいに座ってテーブルにひじをついた。
「なんにしても、しばらくはニースちゃんもヒマだね」
「え?」
「ジャックはね、この状態になったらだいたい三日は目を覚まさないからね。行きたいところがあったら連れてってやるよ?それとも、あまり連れまわさない方がいいのかね?」
うかがうように女将がニースを見つめる。
小さな肉のソテーをフォークでつきさしていたニースは顔を上げた。
「女将さん」
「なんだい?」
「お願いがあるんですが」
身体が重い。
なのに、ふわふわと浮いているような気もする。
ふと鈍い痛みが沸き起こる。
「う……」
痛みに顔をしかめて、うめき声を上げる。
「ジャックさん?」
聞き覚えのない声がした。
重いまぶたを押し上げると、心配そうにのぞきこんでくる黒髪の愛らしい少女の姿が目に入ってきた。
「ここは……」
「宿屋です。ジャックさんが連れてきてくださいました」
「ああ……そういえば……」
徐々に記憶が戻ってくる。
そういえば、こんな少女を拾ったような気もする。
身を起こそうとして身体が動かないことに気づく。
「ああ、まだ起きてはいけません!」
少女がジャックの肩を軽く押さえる。たったそれだけでジャックはベッドに押し戻された。
「ジャックさん、三日も目を覚まさなかったんですよ?急に起きるなんて無理です」
「そうなのか。ということは、また開いたのか?」
「そうですよ?お医者さま、怒ってました」
「だろうな。前も怒られた」
かすれた声でジャックはつぶやく。
そしてふと首を動かして少女に向ける。
「そういえばあんた……まだいたのか」
むっとした顔で、少女がジャックを軽くにらみつける。
「いちゃ悪いですか?」
「いや。ただ、もう帰ったのかと思っただけだ。三日もたってるんだろう」
「けが人がいるのに、放って帰るわけにはいきません」
「……別にあんたがいるからって、よくなるわけでもないけど」
面食らったように少女が目を丸くする。
同時にばら色のくちびるがとがる。
「ひどいですね、ジャックさんって。心配していたのに。お医者さまからも、ジャックさんをよろしくと言われたんです」
「別に言われた通りにしなくてもよかったのに。どうせ初対面の相手だ、おまえが気にする必要なんてないんだし」
「わたくしは気になったんです」
「あんたも物好きだな」
「ニース」
少女が割り込んでくる。
「わたくしはニースです。あんたじゃありません」
ジャックは意外に強い口調に気圧される。
気弱なだけの少女だと思ったが、意外と強い面もあるのだろうか。
「悪かったよ。ありがとうな」
すんなりと素直になったジャックにニースは「いえ」と頬を赤らめた。
相手に対して、こんなに強く出たのは初めてだ。
ばつが悪くて、ニースはそわそわとしながら両手をもみもみと動かす。
「のど、渇いていません?水飲まれますか?」
「そうだな」
ニースは用意していた水差しからグラスに水を注いだ。
「あまり冷たいとおなかをこわすといけませんから。どうぞ」
「ありがとう」
ジャックは無理に身体を起こそうとする。
病人の看病などしたことのないニースはどうしていいのかわからず、おろおろとするばかりだ。
ニースが動いてくれそうにないことに気づいて、ジャックがソファにあるクッションを指差した。
「悪いが、そこのクッションを取ってくれるか?」
「あ、はい」
ニースはソファに近寄ってクッションを両手でつかむ。
「それをくれ」
「はい」
ニースはベッドのジャックにそれを渡す。
ジャックは後ろ手に背中と枕の間にクッションを置いて背もたれを作る。
ジャックのしたいことに気づいて、ニースはもう一つのベッドの枕も取ってくる。
ジャックの見よう見まねで、ニースはジャックの背とベッドの間に枕をもう一つ入れた。
それに背を預け、ジャックはふうっと息をつく。
「ありがとう、楽になった」
ジャックが口元に笑みを浮かべる。
ニースはぱっと頬を染める。
「い、いいえ。ごめんなさい、気づかなくて」
ジャックはニースの差し出したグラスに口をつける。
ごくごくとそのまま一杯を飲み干した。
「何か、食べられそうですか?お医者さまにいただいた痛み止めのお薬も飲まれなくてはいけませんし。わたくし、女将さんに聞いてきますよ?」
「そうだな。軽いものを頼むよ」
「わかりました」
ニースがぱたぱたと軽い足音を立てて出て行く。
戸も開きっぱなしで出て行ってしまうニースにジャックは苦笑をこぼした。
のんびりと、穏やかな時間が過ぎていた。
ジャックが起きてからさらに三日が経っていた。相変わらずニースがずっとそばについてかいがいしく世話をやいてくれる。
家出少女はあいかわらず家に帰ろうとはしなかった。
何かやろうとしてもニースが代わってやってくれるので、ジャックはすることがなくて、今までの人生でありえないくらいにひまをもてあました生活を送っていた。
つまりはずっとだらだらと過ごしていたのだ。
うとうととまどろんでいたジャックは意識が浮き上がっていくのを感じた。
ゆっくりとまぶたをひらくと、ここ数日変わらない景色が見える。
視線を横に移すと、ニースが一心不乱に何かに打ち込んでいる。
まばたいてそれをじっと見つめると、ジャックの服をニースが持っていた。真剣な顔で細い糸と針を巧みに扱っては、ほつれや穴をきれいに直していく。
「器用なもんだな」
思わずつぶやくと、ニースが顔を上げた。
「ジャックさん、起きられたんですか」
「うまいな。新品みたいだ」
「わたくし、さいほうは得意ですの」
照れたようにニースが微笑む。
初めて見たニースの微笑みに、ジャックはかあっと顔を赤くする。
(なんだよ、笑えんじゃん)
おびえた顔か、怒った顔か、どちらかしか見てこなかったから笑えるとは思わなかった。
(っていうか、不意打ちだろ)
口元を手で隠して、ジャックは顔をそらした。
「うん。あながち誇張でもないな。プロでも通るんじゃないか」
ぶっきらぼうに言うが、ニースはジャックの言葉に喜ぶ。
「本当ですか?うれしいです!お母さまが教えてくださって、さいほうと紅茶をいれるのは自分で言うのも恥ずかしいですが、得意ですのよ」
「で、わざわざ俺の服をぬっていてくれたのか?」
「わたくしも時間があまっていたものですから。これくらい任せてください!」
にっこりと笑ってニースは続けた。
「穴という穴をふさいで置きましたから!」
コレで最後です、とニースは持っていた上着を持ち上げる。
ジャックはゆっくりとそれをはんすうする。
穴という穴。
穴。
穴?
(まさか……いや、でも……)
ジャックの顔がぴしりと固まった。
いやな考えが頭をよぎる。
がばりと、ジャックは身を起こした―――つもりだったが、腹を押さえてうずくまる。
「うう……」
「ダメですよ、ジャックさん。また傷が開いちゃいますよ?!」
ニースが服に針をさしてサイドテーブルに置くと、ジャックをあお向けさせて乱れたふとんをかけなおす。
「かばん……」
「え?」
「俺のかばん取って」
一瞬怪訝な顔をしたが、ニースはクローゼットの奥にしまいこまれたジャックのかばんを取って戻ってくる。
「座りたい」
「わかりました」
いつでも座らせられるように準備されたクッションをジャックの背の間に置いて、ジャックを座らせる。
ジャックはもどかしそうにかばんを開けると、服を次々に手に取っていく。
「なにか、不備でもありましたか?」
いけないことでもしたのだろうか。
ニースは不安になって訊ねる。
ベッドの上はジャックの取り出した服が散乱している。
ジャックはというと、複雑な顔をしていた。
「ニース」
「はい」
「全部縫ったのか?」
「かばんの中にあった服の穴とほつれは、全部縫いました」
「下着もか?」
「え?」
ニースがぱちぱちとまばたく。
「服とズボンと靴下以外に入ってましたか?」
本物のお嬢さまのニースにとっては全部ひっくるめてズボンらしい。
小首をかしげるニースに、ジャックは身体の力ががっくりと抜けた。
ずるずるとクッションに沈み込む。
「ジャックさん?」
「ありがたい。本っ当にありがたいよ。けどな、次からはもうズボンはいいから」
「え、でも……」
「いいから」
はっきりきっぱり言い切ると、不満そうだが「はい」ニースは答えた。
ジャックはありがた迷惑という言葉を初めて痛感した。
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