2.不安な夜


 

 小さな宿について、ジャックは後ろを振り返った。

「今日はここに泊まるから」

 ジャックがマントを着せてあげた少女は小さくうなずいた。

「はい」

「えっと、もう一度聞くが、本当にすぐ帰る気はないんだな?」

「ありません」

 悩むかと思ったのに、即答で返された。

 ジャックはくしゃくしゃと髪をかきまぜた。

 本当は、面倒ごとはごめんだ。

 だが生来の性格から、見捨てられないのもわかっていた。

「じゃ、とりあえず今日は泊めてやる」

「ありがとうございます」

 宿のとびらを押して、ジャックは宿に入った。

 からんからんと戸につけられた鐘がひびく。

「こんばんわ」

 声をかけた女将が宿帳から顔をあげる。

「あらジャック!帰ってきたのかい?」

「人に会うたびに言われるな。仕事しに出て行ってただけだってのに」

「アンタは気まぐれだからね。ちょっと出てくるなんて言って、帰ってこないのがざらだから」

 少女がばたんと戸を閉めるのを見て、女将さんが眉をひそめる。

「あんたのコレ?」

 小指を立てる女将にジャックはぶんぶん首を振った。

「ちがう。連れだ」

「そう。いいけど、あんまり楽しいこと、二階でやんないでね。うちはそういう宿じゃないから」

 ニヤニヤ笑う女将に、ジャックは声を荒げる。

「するか!」

「じゃ、これに書いてちょうだい」

 一通りジャックで楽しんで満足したのか、女将が宿帳を差し出す。

 書いている間、少女はだまってあちこちを見回している。

 ものめずらしいらしく、さまざまなものに目を留めてはじっと見ている。

「そうだ、女将。何か着るものないか?」

「アンタの?」

「ちがう。彼女のだ」

 女将が少女に目を向ける。

「俺の着替えはあるんだが、彼女のがなくてな。汚れちまったから、着替えさせてやりたいんだが、この時間だからな。店もやってない」

「アンタの男物を着せるなんて、そんなことさせらんないものね」

「ああ」

 あっさりと言うジャックに、うんと女将もうなずいた。

「いいよ。嫁に行った娘のがあるから、あげよう」

「ありがたい」

「じゃ、ついでに着替えさせてやるよ。アンタにさせるわけにはいかないからね」

「ありがたついでに風呂にも入れてやってくれないか」

「しかたないね」

 ジャックは書き終えた宿帳を女将にさしだした。

「じゃ、よろしく」

「部屋は二階の一番奥だ」

「わかった」

 ジャックはそう言って、少女に歩み寄る。

「おい」

「はい」

 奇妙な置物にじっと視線をそそいでいた少女が顔を上げた。

「女将が着替えと風呂を手伝ってくれる。やってもらえ」

「あ、はい」

「俺は部屋にいる」

 そう言ってすたすたと歩き出す。

 一瞬その背がふらりとゆれたような気がして、ニースは思わず呼び止める。

「ジャックさん!」

「あ?」

 けだるげにジャックが振り返るが、

「じゃ、お嬢ちゃん、こっちにおいで」

 女将が手招くので、ニースはうつむいた。

「いいえ、なんでもありません」

「そうか」

 ジャックはそのまま二階へと上がっていく。

 ニースは女将のあとについて走っていった。


 


 

 店番を若い男の人に任せた女将が、宿の奥へとニースを連れて行く。

「奥はあたしたち宿の者の家でね。こっちだ」

 女将はニースをともなって、宿と続きになっていた家の一部屋に入る。

「ここは嫁に行った娘の部屋でね。着られなくなった服がまだ残ってるから、見つくろってあげるよ」

「ありがとうございます」

「ちょっとマントを脱ぎな。あんたに合うのを選びたいから」

 言われた通り、ニースはマントを脱いだ。

 砂に汚れてしわのついたドレスに、ほどけてぼさぼさの髪。

 なんだか見られていると思うと、恥ずかしくなってくる。

 ニースはうつむいた。

「はあ……お嬢さんどこの人だい?」

 女将さんが目を丸くしている。

「えらく良い物着ているね。汚れちまってるけど」

「…………」

 言えない。こんな格好でこの町の領主の娘です、などと。

 うつむいているニースから何かを感じ取ったのか、女将はそれ以上聞かなかった。

「きれいな黒髪に黒い瞳だからね。何でも合いそうだけど……」

 クローゼットをごそごそと女将さんが探る。

 ニースは手持ちぶさただったので、マントをたたみ始める。

(あ、ほつれ発見)

 さいほうが得意な身としては、こういうものを見るとついつい直してしまいたくなる。

 うずうずしているところへ、女将さんが薄水色のワンピースを持ってきた。

「これはどうかな?」

「あ、はい」

 マントをいすにかけて、着替えようとしてニースは固まった。

 どうやって脱ぐのだろう。

 固まっているニースを見て、女将が怪訝にニースを見つめる。

「あんた、脱げないのかい?」

「……はい」

 女将があきれたように半眼になる。

「とんだお嬢さまだ!ジャックもすごい人を連れて来てくれたね」

 ニースはびくっと身を震わせる。

 町に駐留している父の騎士団に伝えられてしまうだろうか。

 帰りたくない。

「あのっ、お願いです。騎士団には言わないで」

 思ったらつい口にしていた。

「騎士団に?」

「はい。わたくし、まだ、帰りたくないんです」

 今帰ったら、まだゴードンはいるだろうか。少なくともボニーは絶対にいる。

 まだ顔を合わせたくなかった。

 ニースはきゅっと両手を組んだ。

「お願いです」

 腕を組んで考え込んでいた女将が小さく息をはいた。

「ま、あのジャックが連れてきたんだ。ワケありとは思ってたよ」

「え?」

「言わないよ、アンタのことは。アンタの保護者はジャックだからね。何か考えもあるだろうさ」

 ニースは首をかしげる。

 押し付けられたようにしてニースを連れて行くことになっているあの赤い髪の男に、そんな考えがあるとは到底思えなかった。

「女将さん、風呂沸きましたぜ」

 トントンとノックとともに戸の向こうから声がかかった。

「あいよ。ありがとね」

「へえ」

 足音が遠ざかっていく。

 戸を開けられたらどうしようと、身を硬くしていたニースはほうっと身体から力を抜いた。

「そう身構えて心配しなさんな。風呂が沸いたし、風呂場につれてってやるよ。早くその身体、洗っちまいたいだろう?」

「はい」

「洗ってやってもいいけど、どうする?自分でやるかい?」


 


 


 

 風呂場まで連れて行ってもらって、ニースは湯の張られた風呂につかった。

 複雑に着込まされた服を、なんとか女将と試行錯誤して脱いで、やっと自由になれた。

 ちゃぽんと、水のはねる音がひびく。

「ゆっくりしなよ?どうせジャックからしっかり風呂代ももらってるからね。お湯もたっぷり使いな」

 女将がついたての向こうから声をかけた。

「ありがとうございます」

「いいっていいって。ジャックにも、たまには散財させてやりな。あいつ、しっかり貯めこんでるからね。タオル置いておくね」

 そのまま去ってしまいそうだったので、思わずニースは呼び止めていた。

「女将さん」

「なんだい?」

 言おうか言うまいか、何度か口をあけたり閉じたりしていたが、ニースは問いを口にする。

「あのひと、どういう方ですか?」

「だれ?」

「ジャックさんです」

 自己紹介されたわけでも、したわけでもないが、あれだけ人が呼んでいれば、おのずと覚えられる。

 赤い髪の男の名を口にして、ニースは続けた。

「わたくし、会ったばかりで……どんな方か、わからないから」

「しばらくいっしょにいれば、わかるよ」

「……そうですか」

 それはそうだろう。

 だが、厄介ごとはごめんだと、顔に書いてあった男だ。

 すぐに放り出されるのはまちがいない。

「いろいろと、ありがとうございます」

「出るころに来るよ」

 宿の女将は部屋を出て行く。

 ニースは手足を伸ばした。

「これから、どうしよう」

 考えなしに飛び出してきてしまった。

 後悔はしていない。

 あのまま屋敷にいることはできなかった。ゴードンとも、あのメイドともどんな顔をして会えばいいというのだろう。

 聞いてしまったのに。

 今後どうすればいいのかわからない。

「お人形さん、か」

 きれいなだけのお人形。

 《私》には、何も求められていなかった。

 ただ、飾られているだけでよかったのか。

 そんなふうにしか見られていなかったことに、気づきもしなかった。

 父も母も、はっきりとは何も言ってはくれなかった。婚約が決められたときも、いろいろと手習いをさせられたときも。

 でも、何も言わなかったのはニースだ。

 ぽろぽろと、とめどなく涙が流れる。

 温かい湯はニースの心を温めてはくれるが、癒してはくれなかった。


 


 


 

 風呂を出たニースは女将に手伝ってもらって、水色のワンピースを着ていた。

「いいじゃないか。似合うよ」

 姿見を見せて、女将がにっこりと笑った。

 黒い髪は背中に流されたままで、質素な水色のワンピースはくるぶしまで隠してくれていた。

「うん、やっぱり長めのスカートにしておいてよかったね」

 姿見の中の自分はまんざらでもなかった。

 むしろ、いつものごてごてと飾っていた方が違和感を感じるくらいだ。

「ありがとうございます」

「いいのいいの。元がいいのよ、きっと」

「いえ」

 ニースはまつげを伏せる。

「はいこれ。あと、前の服はどうするね?」

 女将がニースのつけていた装飾品を袋に入れて渡すと、いすにかけてあったニースのドレスをさす。

 土ぼこりで汚れ、しわがついているが、人目で質のいいものとわかる。

 ニースは首を振った。

「もういりません。処分しておいてくれますか?」

「捨てちまうのかい?もったいない」

「邪魔になりますから」

「そうかい?」

 女将がもったいなさそうな顔をしていたが、持っていてもたしかに邪魔になる。

 きゅるっと小さくニースのおなかが鳴った。

 ニースはかあっと顔に血が上る。

「夕飯を食べてなかったね?用意するよ。ジャックを呼んできてくれるかい?」

「あ、はい」

「部屋は二階の奥ね」

 女将さんが言ったとおり、ニースは二階へと階段を上っていく。

 小さな宿なので、すぐに廊下を歩ききり、奥の部屋へとたどり着く。

 ノックのために手を上げかけて、ニースは下ろした。よく考えたら、自分の部屋に入るのにノックはおかしい。

 かちゃりとノブを回して、戸を開けた。

 あまり広くない部屋には、ベッドが二つあり、奥のベッドに荷物が無造作に放ってあった。

 テーブルといすが二脚あり、その一方に座ったジャックがテーブルに突っ伏している。

「寝るならベッドで寝られれば良いのに」

 ニースは小さくつぶやいて、戸を開けたままジャックに近寄る。

「ジャックさん。夕飯にしましょう?女将さんが呼んでます」

 声をかけるが、ジャックは微動だにしない。

 そんなに眠り込んでいるのだろうか。

 ニースはジャックの肩に手をかけた。

「ジャックさん」

 ゆさゆさと揺さぶるが、ジャックが起きる気配はない。

「ジャックさん、起きてください!」

 強く揺さぶると、「う……」小さくうめく声がした。

「ジャックさん?」

 怪訝に思って呼ぶと、ぴちゃんぴちゃんと水音がする。

 何かが垂れる音に、ニースは眉をひそめる。

 音がする方を探して、首をめぐらす。

 部屋の中には洗面台があったが、蛇口からは水は垂れてはいない。

「なに?」

 もう一歩、ジャックに近づいてニースは何かぬめるものを踏んだ感触に視線を落としていく。

 暗くてよく見えないが、黒っぽい何か水のようなものが足元に垂れている。

 足をどけると、ろうそくの明かりにそれが赤いものだとわかる。

 ゆっくりと視線を上げていくと、いすを伝ってこぼれているのがわかった。

 いすの上には、ジャックの身体。ジャックの服が一部、真っ赤に染まっていた。

 気づいたら、悲鳴を上げていた。

 甲高い悲鳴に、宿の戸があちこちで開いた音がした。

 それと同時にばたばたと階段を上る足音が聞こえてくる。

「どうしたんだい?!」

 宿の女将が部屋に駆けてくる。

 ニースは両手を頬にあてたまま、涙のにじんだこわばった顔で女将に顔を向けた。

「女将さん!ジャックさん……ジャックさんが!」

 女将は立ち尽くすニースと突っ伏したジャックを見て、厳しい表情をした。

「まったく、またかい!いつもいつも!」

 女将が後ろを向くと、野次馬が部屋をのぞきこんでいた。

「あんたたち、ちょっと手伝いな。やかんを火にかけておいてくれ。あと、医者を。二軒先に医者の家がある。急いで呼んできとくれ」

 そしてニースの肩を両手でつかむ。

「気をしっかり持ちな、お嬢さん。医者が来るまでちょっとジャックについていておくれ」

 ニースはがくがくと首を縦に振った。

「本当に、厄介ごとが嫌いなくせに、厄介ごとしか持ってこないんだから!」

 女将が叫ぶのを、遠くの世界のように聞いていた。

 ただニースの視界には、青い顔をしたジャックと真っ赤な血の色だけが映されていた。

 

               

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