プロローグ
「姫さま」 遠慮がちに声をかけられて、セレスティはゆっくりと振り返る。 つらそうにまつげを伏せながら、小柄な侍女が立っていた。 あの日から―――隣国との戦で一年前に兄を亡くした日から、ずっと同じような黒いドレスを着ている主人を見るとアニスは心苦しく思う。 それは主がずっとそのことに囚われているというなによりの証だ。 振り返るときに、長い金髪をおおうその黒いヴェールが頼りなさそうに揺れた。 「なに?」 「陛下が、お呼びです」 「……そう」 セレスティはおっくうそうに立ち上がって部屋を出る。 廊下を歩くと複雑な表情の兵士や貴族たちがセレスティを見つめる。 だれも声をかけたりはしない。 王の末姫、セレスティはうとまれていた。 豊かに波打つ長い金髪が黒に映えて目を引き、白い肌にもよく映える。 父にも母にも似ていない美しすぎるその容貌ゆえに、きらわれた娘だ。 本当に王と王妃の子なのか、と言われたのも一度や二度どころではなかった。 「セレスティ王女殿下、参られました」 玉座の間を守る衛が声を張り上げると、大きな飾り扉が開け放たれる。 ムダに広い玉座の間には、玉座に向けてまっすぐに紅いじゅうたんがしかれている。玉座は大扉からは遠すぎて、玉座の主の顔すら見えない。 昔からこの広すぎる部屋はムダなのではないかと思っていた。 長いじゅうたんも。 遠すぎる玉座も。 見下ろすように作られた階段も。 すべては王という存在が自己肯定と自己満足のために作らせたにすぎない。 音もなくじゅうたんの上をかろうじて王の顔が見えるところまで歩いて、セレスティは頭をたれてひざまずいた。 「お呼びかしら、お兄さま」 「この場で兄と呼ぶのはやめよ」 チラリと視線だけを上げると心底いやそうに顔をゆがめて、兄王ははき捨てるように言う。 いやがっているからこそ、仕返しとばかりにいつもやってしまう。たぶん向こうも知っているのだろう。 顔を上げずに、セレスティは口元だけで声なく笑った。 「御用はなんでしょうか」 「亡き先代の第八王女、セレスティ・リーゼ・レイン。現スレイン王国国王ザルスの名において命じる。国のため、隣国ラティニア皇国に嫁げ」 「え?」 セレスティは思わず顔をあげてしまう。 黒いヴェールの下、海色の瞳を見開いてセレスティは耳を疑った。 「こたびの戦はわが国の負けだ。父王がこの戦で亡くなったのを契機に、一度ここで休戦しようと思う。そのためには、かの国にひとりくらい人質をやらねばなるまい」 「陛下は、まだ戦をするつもりなのですか?」 「当然だろう。かの国に住むものたちは人間ではない、化け物だ」 こぶしをにぎりしめて王が熱く語る。 セレスティはラティニア人に遇ったことはないが、ラティニアという国はずっと昔に失われたはずの魔法という不思議な力をいまだに持っているという。だからこそ近隣の国々は大国ラティニアを恐れ、顔色をうかがっている。 だが勇気ある誇り高いスレインだけは恐れることなく、幾度となくラティニアに戦を仕掛けてきた。スレイン人だけが、大陸の人間を救うことができる。 そのように歴史では習った。 「ラティニアの者など、怪しげな妖術を使う悪魔の使徒たちだ。我ら誇り高いスレイン人がいずれはやつらをうち滅ぼし、正しき世となすのだ。それにはまだ、国力を蓄える時間が必要だ」 セレスティはそのための、体のよい人質ならぬ人柱らしい。 「それで、私なら後くされもないし、後に攻めるときにもためらうことなくできるというわけ」 「そうではない。そなたが先王の子の中でいちばん見目がいいからだ」 「ご冗談を」 「むかしから言うであろう。国をかたむけるのは美姫であると。そなたも皇帝を骨抜きにして敵国をかたむけてみせろ。皇帝を寝所から出すな」 「なんということを……」 「国さえ立ち行かなくさせられればこっちのものだ。そなたも好きにすればいい。どうせ休戦という体裁を保つためだけのものだ。そなたが逃げ出したところで、かの国とていちいちそんなことを気にとめることもなかろう」 まるで道具にように言う兄が憎らしかった。 セレスティは眉間に深い谷をきざむ。 「ま、ついでにかの国の皇帝の首でも取ってくれればもうけものだな。ま、そなたには無理か、相手は冷酷無慈悲なあの魔王だからな」 声をあげておもしろそうに笑う王を見て、セレスティはくっと歯をくいしばって、こぶしをにぎりしめる。 セレスティには武術の心得もなければ、薬のたぐいも詳しくない。 そんなこと、できるはずがないではないか。 大切にしてくれていた母はとうに亡く、きらうことなく娘として接してくれた父も、王宮で唯一優しかった兄も、この戦で亡くしてしまった。 セレスティの居場所は、この国のどこにも、もうない。 「おまえもスレインの王女であろう。いままでなんの役にも立ってこなかったのだから、少しは民のためになることをしろ」 民のため、国のために死ねと? さすがにセレスティはそこまでは言わなかった。 (この世のどこにも、私の居場所はない) 改めて、それを知っただけだった。
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