おいしいお菓子の作り方 後編


 


 

「が、がんばるわ……」

 目の前の黒い物体を見て、がっくりと肩を落とした。

「とはいっても、そうそううまくなどなりませんわよね」

 気力だけであっというまに上達するならニースは今ごろ一流シェフだ。

 今日も今日とて料理人たちが調理場の外からはらはらと心配そうにのぞきこんでいる。

 ニースはこのために朝早くから今日の分の勉強は終わらせていた。なんといっても下手なため、時間はどれだけあっても足りないくらいだ。

 かれこれ四、五日くらい前から料理に挑戦しているのに、まったく腕があがらない。

 料理の本とにらめっこをしながら、何度も手順を確認をして作業をこなしているのに、増えるのは失敗の山ばかりだ。

 めげそうになるその山から目をそらして、ニースは深呼吸すると、こぶしをかためる。

「いいえ、負けません。絶対に、おいしいお菓子を作るんです!」

(いいえ、お嬢さま。あなたには料理の才能はありませんから!)

(もういいかげんあきらめてわたしどもにお任せください!)

 料理人たちはこの数日の間でいだいた感想をとても口にすることはできなかった。

 ニースの真剣な決意に満ちた顔を見ては、だれもそんなことを言う勇気は持ち合わせられなかった。

 調理場が汚れるとか、食材がゴミになるとか、そんなことよりもニースの小さな夢をこわすのが料理人たちはなによりも恐ろしかった。

「お嬢さま、ニースさまー」

 廊下を歩いて呼ぶ声が聞こえる。

 ニースは生地をかきまぜるへらを動かす手を止めた。

 調理場の入り口にできた人だかりの向こうから茶髪がひょっこりと現れる。

「あ、お嬢さま、こんなところにいらっしゃったのですか」

 レナが調理場に入ってきてわずかに眉をひそめた。

「なんですか、この匂いは」

 あわあわと料理人たちが顔を見合わせる。

 地雷を踏んでしまったのではないかと、料理人たちは気が気ではなかった。

 ぴたりと動きを止めたニースは小さくため息をもらしてそばにあった小さな丸いすに腰をすえた。

 疲れたように三角巾をはずした。

「ひどいにおい、ね。わたくしもとても人が食べられるとは思えません」

 ニースの作った失敗作の山を見て、レナはニースを振り返った。

「もしかして、お嬢さま」

 レナの大きな丸い瞳に見つめられて、ニースはきまり悪そうに小さくうなずいた。

「ええ」

「おなかがすいておられたのですか?」

「は?」

 ニースは思わず変な声を上げてしまった。

 それに顔を赤らめている間に勝手に納得していたレナが袖をまくった。

「そうならそうと言ってくださいまし。私、これでも趣味は料理なんですよ。まあ、ここの料理人の方々に比べればなんてことはないものですが。シェフの手をわずらわせるのがおいやだったのですね?お嬢さまったらいじらしい」

「え、いえ、ちがうのです」

 あわてて横に手を振ると、レナは腕まくりしていた手を止めきょとんとした。

「え?ちがうのですか?」

「ちがうのです、レナ。わたくしは、わたくしは、午後のお茶の時間のためのお菓子が作りたかったのです」

「あ……もしかして、ジャックさまといただかれるおつもりで?」

 なんだかそれを口にすることすらおこがましい気がして、ニースはかすかにうなずいた。

「なるほど、さようでございましたか」

 ニースはひざの上で両手を組んだ。

 レナは失敗作の山を見つめながら思案に暮れる。

「お嬢さま、今日はもう時間も迫っておりますし、明日、あらためて私といっしょに作りましょうか」

「え?」

 ニースはぎゅっととった三角巾をにぎりしめて、おどろきに目を見開きレナを見上げる。

 レナはニースににっこりと笑いかける。

「私もお手伝いいたします。材料も多めに仕入れてくれるよう頼んでおきます。明日は、ジャックさまをあっとおどろかせましょう」

 レナはいたずらっぽく目を細める。

 ニースはあっけにとられ、いっしゅんきょとんとした。

 だが、レナの提案にはにかみながら笑った。


 


 


 

「あとは、焼くだけですね」

 オーブンに天板を入れて、レナはミトンのなべつかみをはずした。

 要領のわからないニースに代わり、ほとんどをレナがやってくれた。だがニースももちろん必要なところでは手伝った。

 だからレナだけが作ったとはいえないはずだ、たぶん。

「もうすぐですね、お嬢さま」

「ごめんなさいね、レナ。わたくし、あなたにまかせっきりだったわ」

「何をおっしゃいますか。お気になさらないでくださいまし。お嬢さまも作られたではありませんか」

 ニースはそこでだまり込む。

 はっきり言って、ほとんどレナがやってくれた。無事に焼くところまでこぎつけたのも、レナのおかげだ。

「たしかに、初心者のお嬢さまにはむずかしい生地を作るところはせんえつながら私がやらせていただきました。ですが、材料を量ってくださったのはお嬢さまですし、形を整えたのもお嬢さまですわ」

 ニースはさらに口をつぐむ。

 逆に言えば、それしかやっていない。

 レナは少し考え込むと、ぱんっと両手を叩いた。

「何よりも大事なところを、お嬢さまはやってくださいましたわ」

「何よりも大事なところ?」

 大きく、レナがうなずいた。

「愛情を込めるところですわ。私は作ったものをおいしくいただいてほしいという思いはございますが、残念ながら愛情は込められませんわ。それを込められるのはお嬢さまだけです」

「わたくしだけ?」

「もちろんです。ニースさまの愛情がたっぷり入っていますもの。ぜったいにおいしくできあがります」

「そうかしら?」

「ええ!ですから、今日がうまくいきまして、お嬢さまがこれからも続けたいとお考えになられましたら、今度はここの料理人の方々にいっしょに学びましょう?」

 外から心配そうにのぞきこんでいた料理人たちが目を丸くするのがちらりと視界に映った。

「いっしょに、料理を?」

「私もまだまだ知らないこともたくさんあります。その点、彼らはその道のプロですよ?こんなにいい先生がいるんですもの、教わらなくては損ですわ」

「そうですね」

 にっこりと笑うと、レナがついっと視線をそらす。

 ニースは不思議に思って小首をかしげる。

「どうかしたの?」

「お嬢さま。その……」

 レナは言おうか言うまいかと悩んでいるように、きゅっと眉根を寄せる。

 ニースはぱちぱちとまばたいた。

「なあに?」

「すみません、なんでもありません」

 ニースは結局ふるふると首を振ったレナの両手をとった。

「レナ、あなたのおかげでわたくし、夢にまでみた時間を持つことができそうですの。ほんとうに感謝しています。だからあなたも何かあるのなら言ってください。わたくしにできることなら力になります」

「ほんとうですか?」

 レナのつぶらな茶色の瞳が、おそるおそるといったふうにニースを見上げる。

「もちろんです」

「では、お嬢さま、お願いします。私にさいほうを教えてくださいませんか?」

「え?」

 ニースは意外な言葉に目を丸くする。

「我が家も貴族の端くれなのですが、私、さいほうは全然ダメなんです。目は粗いし、まっすぐにぬえないし、すぐ指に針を突き刺してしまうし……本当にダメなんです」

 恥ずかしいのかほんのりと顔を赤らめてレナが告白する。

 貴族の令嬢はぬい物と家人の采配ができなくてはならないとされる。レナはずっと悩んできていた。

 家人の采配は嫁入り先で姑から習えるとしても、さすがにさいほうまでは教えてはもらえないだろう。

「私、本当にさいほうは苦手、というかきらいでして……イヤだからとさわらずにいたら余計にうまくできなくなって、だからまたやりたくなくなってしまって」

 悪循環にはまってしまった。

 とてもそんな状態ではうまくいかないだろう。

 ニースはぽかんとしていたが、すぐに口元に笑みをはいた。

「いいですよ」

「本当ですか?」

 ぱあっと顔を明るくするレナに、ニースは姉のように微笑みかけた。

「では、さいほうはわたくしといっしょに練習しましょう?」

「ありがとうございます、お嬢さま!」

 ぺこりと、深く頭を下げたレナを見て、ニースはジャックの言うとおりだと思った。

「わたくしたち、いいお友達になれそうね」

 ぽつりとつぶやいた言葉を聴いて、レナが顔を上げる。

「はい!あの、お名前でお呼びしていいですか?ニースさま、と」

「もちろんです!」

 “お嬢さま”はたくさんいるけれど、“ニースさま”はここにいるニースを指す。
 ニースだけを。

 ニースはうれしくて、胸があたたかくて、目を閉じた。

(ほんとうに、ジャックさんの言うとおりです)

 はじめは知らない人は怖くみえる。よそよそしくなってしまう。

 だがジャックの言うとおり、勇気を持って接さねば仲良くもなれない。

 ジャックが背を押し出してくれて、レナから歩み寄ってくれて、そしてレナと仲良くなろうと自分から歩み出せてよかった。

 ニースは心からそう思った。


 


 


 

 ニースはそわそわといすに座りながら周りを気にしていた。

 まだ時間には少し早い。

「レナ」

「はい、なんでしょう?」

 お茶の用意をしていてくれたレナが顔を上げる。

 本当はお茶もニースがやりたかったが、レナに私にも仕事をくださいませ、と頼まれて断るに断れなかった。

「だいじょうぶかしら?」

 目の前にはこんがりときつね色と、チョコレート色の二種類のおいしそうなクッキーがあった。

 ジャックはああ見えて甘いものが好きだ。

 最初はニースに合わせてくれているのだと思っていたのだが、最近はそうでもないらしいと思い始めている。

 甘いものも好きだし、酒も好きらしい。

 父と飲んでいるのを見たのも一回や二回ではない。

 だから甘すぎるとかそういうことでムリして食べさせることはないだろうが、やはり不安だ。

 レナはそんなニースの心配を吹き飛ばすように花のように笑う。

「だいじょうぶですよ、お嬢さま。自信を持ってください」

「ええ、そうね」

「ほら、来られましたよ?」

 通路の向こうからジャックが現れ、ニースに向かって笑いかける。

 これからが勝負だ。

 だが、なんとなく未来の光景はニースの頭の中に浮かんでいた。それを思うとなんだか口元がゆるんでしまう。

「なんだ、今日はうれしそうだな」

 ジャックの言葉にニースは大きくうなずいた。

「はい!」

 満面の笑みで迎えるニースを不思議そうにしながら、ジャックは席に着いた。

 レナがなれた手つきでお茶をいれる。

 ニースの未来予想図通りになったかどうかは、ニースとレナの二人だけの秘密。

 

     

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