おいしいお菓子の作り方 前編
ニースは真剣な顔で目の前に並ぶ黒い物体を見つめていた。
長い黒髪はきれいに結い上げて邪魔にならないように一つにまとめ、ご丁寧に三角巾までしている。白いエプロンをして、ニースは台所に立っていた。
きれいだった台所はすっかり汚れてしまって、伯爵家の料理人たちは真っ青になってニースのことを見守っている。
香ばしいを通り越した、いやぁなにおいが部屋に充満していた。
「はあ」
ため息をもらして、ニースはがっくりとうなだれる。
「どうしてかしら」
なぜうまくいかないのだろう。
さいほうは得意なのに。
手先が器用なんだな、と彼も言ってくれたのに。
それなのに、料理はまったくといっていいほど才能がなかった。
「お、お嬢さま」
「お茶菓子でしたら私どもがお作りいたしますから」
言外に早く出て行ってくれと言われているらしい。
ニースはもう一つため息をもらした。
ニースにとっての一大宣言から一週間がたった。
父はおもしろがっていて、母はあいかわらずいやそうな顔をしている。
二人の間はというと、これといって何も変わっていなかった。
というのも、全然会う機会がないからだ。
ジャックは連日厳しい授業とやらがあって、廊下で会ってもろくに会話もできない。食事中はジャックを試すかのように父と母が話しかけるものだから、ニースが会話をはさむ余裕もなく終わってしまう。
二人でのんびりと会話ができる、というよりも顔を合わせられるゆいいつの時間が、午後のお茶の時間だった。
「だから、わたくしはジャックさんにお菓子を作ってさしあげたいのに」
白い三角巾をひょいととって、ニースはがっくりと肩を落とした。
さいほうには自信がある。町で有名なお針子さんにも負ける気はない。
お茶をいれるのにも自信がある。母が手ずから教えてくれた自慢のブレンドだ。
だが、料理ができなかった。
お嬢さま育ちのニースは作る機会どころか、そもそも必要性がなかったため、いつのまにか覚える機会をなくしていた。
午後のお茶の時間、ジャックと会ってニースが手ずからお茶をいれる。
そのときにニースの作ったお菓子を食べたジャックがおいしいと言ってくれる。そんな夢を見てみたかっただけだ。
ニースの小さな夢はそもそもの始まりのところでつまづいていた。
「シェフさんたちの料理もおいしいけれど、わたくしが作らないとダメなんです」
まずいどころか、ニースが作ったよりもはるかにおいしいのはわかっている。
だが、そういう問題ではないのだ。
もう一つおまけに盛大なため息をもらして、ニースは自室のドアを開けた。
「ニース!やっと戻ってきおったか!」
部屋のソファで部屋の主人のようにふんぞり返っていた壮年の男が顔を上げる。
渋くてダンディな男は、ニースの父であるエラーナ伯爵だ。
「お父さま、どうなさったのですか?」
今は意気消沈している最中だ。できれば一人で静かに考え事にふけっていたかった。
ニースのそんな気も知らないで、伯爵はソファから立ち上がるとふと眉をひそめた。
「ニース、なんだそのかっこうは」
「少し料理がしてみたかったんです」
「勉強が終わって走っていくから、どこへ行くのかと思えば……」
ニースの考えたことでも予想したのか、いくぶんあきれたように伯爵がつぶやく。
ニースはぱあっと頬を赤らめた。
「い、いいではありませんか。そ、それよりも、何かご用があって来られたのではないのですか?」
「おお、そうだった。ニース、おまえつきのメイドを連れてきたんだ」
「え?」
ニースがけげんに聞き返した。
そもそも、ニースが両親に一大告白をするにいたる経緯には、元婚約者とニースつきだったメイドの裏切りが原因にある。
ニースはいやな思い出を振り捨てるように首を振った。
「お父さま、前にも申し上げましたが、わたくしはわたくしつきのメイドは金輪際いりません」
「そう言うな。やはり何かと不便であろう。今度は信用できる相手だ」
そう言って伯爵が手で示すと、伯爵の後ろに控えるように立っていた少女が姿を現した。
短い茶色の髪の小柄な少女はニースを見てにっこりと微笑んだ。
「はじめまして、お嬢さま。私はレナと申します。これからお嬢さまのお世話をさせていただくことになります」
愛らしい少女にニースは困った顔をする。
「お父さま!」
「今度は前のようになど絶対にならない。心配いらないぞ。この子は私の信頼できる部下の娘だ」
だからといって絶対という言葉はない。
だが父の好意をむげにすることもできないし、レナという娘も嫌いにはなれそうもない。
ニースはしぶしぶ了承することしかできなかった。
「で、それを悩んでいるのか?」
紅茶に口をつけながらジャックが訊ねるので、ニースは小さくうなずいた。
鮮やかな赤い髪が緑の中でよく映える。
青い瞳に自分の顔が映っているのを見ると、いつもはひどく落ち着かないのに今日はそれどころじゃなくて気にならなかった。
「ふうん。あの子?」
ちらっとジャックが奥で邪魔にならないように本を読んでいる少女に視線を向ける。
「ええ」
「ニースの新しいメイドか。悪い子には見えないけどな」
「そうなんですが……」
ニースも言葉尻をにごす。
前のメイドのことがあったため、ニースは少し神経質になっているのだろうかと自分でも思う。
だからといってすぐに仲良くなろうと思えるものでもないらしい。一度ついた傷は、なかなかいえてはくれない。
「ニース」
顔を上げると、ジャックが微笑みをたたえてニースを見つめている。
優しい瞳の中に自分の戸惑うような顔が映っていた。
「好きになれそうって、思ったんだろう?」
「……ええ」
「じゃあ、ニースの第一印象を信じよう。少なくとも、俺はニースを信じてる」
「ジャックさん」
「俺の見た感じでも、良さそうな子だと思う。ニースとも合うんじゃないかな」
「そう、でしょうか」
ニースもレナに顔を向ける。
そうであってほしいと思いたい。思いたいが、そう簡単に信用していいのかとささやく自分がいる。
真剣に本を読んでいたレナは視線に気づいたのか顔を上げる。
ニースとばっちり目が合って、レナは本を閉じて腰を浮かす。
「なにかございましたか、お嬢さま」
「な、なんでもないの。ごめんなさいね、邪魔してしまって」
立ち上がりかけたレナが小首をかしげた。
が、次の瞬間にはにこっと笑う。
「いいえ。用事がありましたら、何なりとお申しつけください」
「ありがとう、レナ」
笑顔で答えて、レナはふたたびいすに腰を落ち着ける。
(ふうん)
それを見守っていたジャックは口角を上げた。
「うん。やっぱり、ニースと合うよ。俺が保証しよう」
「ジャックさん」
簡単に言ってくれるとばかりに、ニースがくちびるをとがらせる。
ささいなことでもニースがやるとかわいいなと、ジャックはこっそりと思った。
「ニースは自分の考えに自信が持てないんだろう?」
ニースがぱちぱちとまばたく。
「絶対なんてないと思うのと、たしかな根拠が見つけられないから、自信が持てないんだろう」
「……はい」
「じゃ、俺のことは?」
「え?」
弾かれたようにニースは顔を上げる。
ジャックはテーブルにひじをついて、手の上に顔をのせながらニースを見つめていた。
「俺のことはどう?信じてるの?」
「当然です!」
ジャックの問いにニースは即答する。
ジャックには全面的に信頼を置いている。なぜいまさらそんなことを訊ねるのだろう。
ニースのことを、ジャックは信じていないのだろうか。
ちょっと怒りながらニースはジャックを軽くにらんだ。
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
ニースが怒るのがジャックにはうれしい。
くすくすと笑うジャックにニースは不機嫌そうな表情をした。
「なぜ笑うんですか」
「ごめんごめん。とにかく、ニースは俺のことを信じている。で、俺もニースのことを信じている。ということは、ニースは俺がニースの判断は正しいと思っていることも信じるってことだな」
「あ……」
ニースは言い返す言葉を失って口をつぐむ。
たしかに、ジャックを信じるならそういうことになる。
「だろう?だいじょうぶ。きっと仲良くなれるさ」
「なれるでしょうか?」
「ああ。よかった、これでニースに味方ができる」
「え?」
ジャックは安心したように微笑んだ。
「ちょっと心配してたんだ。あれからニースはちょっと元気がなかったからな」
「それは……」
ニースは言葉をにごす。
前のメイドは長い間ニースに仕えていたメイドで、ニースにとっても大切な友だと思っていた。
その友に裏切られた。
ジャックがそれをいやしてくれたとはいえ、ジャックはいつもいっしょにはいられない。
さみしさを感じることがときおりあった。
「ニース、怖いのもわかる。けど、少しだけ待ってみるのもいいんじゃないか?気を長く持って、様子を見てみよう。俺もいるけど、やっぱり女友達も必要だよ」
ニースはぺろりとくちびるをなめてしめらせる。
そしてまっすぐにジャックを見つめて、こくりとうなずいた。
部屋に戻ってきたニースははっと我に返ってがくぜんとした。
(わたくしのバカ!)
頭を抱えてううっと小さくうなった。
(せっかく!せっかくのジャックさんとのお茶の時間だったのに)
一日のうちで、たった数十分、自由に話していっしょにいられる時間なのに。
それなのに、その大切な時間を自分でふいにするなんて。
「ぐちってジャックさんに心配させて……わたくし、何をやっているのでしょう」
ベッドに腰かけて、ニースは深い深いため息をもらした。
「こんなはずではなかったのに……」
いろいろと話したいことがあった。
今日は何をしていたのか。
勉強は進んでいるのか。
ときおり庭に出ているのは、剣でも振るっているの?
ほかの人にとってはたわいのない話でも、少しでもジャックについて知りたかった。
いっしょにはいられない時間を、そうした話でうめたかった。
「ジャックさん……」
大切なものを見守るような、優しいまなざしでジャックはニースを見つめていた。
思い出すとかあっと顔だけでなく身体まで熱くなる。
「よしっ!」
ニースはすくっとベッドから立ち上がった。
「明日こそ!わたくしは、わたくしの夢のためにがんばるわ!」
ぐっとこぶしをにぎりしめて、ニースは固く決意した。
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