1.うららかな日々
天気の良いうららかな午後、ニースはめかしこんでそわそわとその時間を待っていた。
日差しが強く、暑くなりつつある外でのお茶の時間は、また秋までしばらくお預けだ。
せめて外が見えるように庭に面してもっとも大きな窓のある部屋に用意するようにしている。大きな窓は開け放たれていて、かろうじて風が部屋の中に通ってくる。
手入れされた庭は緑がまぶしい。ところどころに花が咲いて彩りもそえられている。
ニースが屋敷の中でもいちばん気に入っている場所だ。
お気に入りの淡い黄色のドレスを着て、ニースはいすの上で落ちつかなげにちらちらと視線を動かす。
長い黒髪は軽くまとめて背中に流している。最近は前のようにいいかげんにはせず、毎日ていねいにくしですいている。それに肌の手入れもかかさない。
すべてはいちばん好きなひとの前で、少しでもきれいでありたいからだ。
「ニースさま、そんなにあせらなくても午後のお茶の時間は逃げませんよ?」
茶請けの菓子を盛りつけながら、くすくすと笑ってメイドが言った。
長年いっしょにいてくれたメイドは三ヶ月前の騒ぎのことで解雇になった。そのため、新たにニースつきになった若い娘がいつもついてくれている。
愛らしいメイドは父の部下の娘であるレナだ。
「そ、そうですね」
そうは言いながらもニースは落ち着かない。
この時間になると、最近はずっとこんな感じだった。
ニースが大好きな人は、近頃なぜか一段と忙しさを増したらしく、それまでは日課だったお茶の時間すら取れない日もある。同じ屋敷にいるはずなのに、毎日は顔を合わせられない。
だからこそ、少しでもいっしょの時間を大切にしたい。
「ねえ」
待っていられずニースはレナに声をかける。
「はい、ニースさま」
「わたくし、おかしいところはないかしら」
「そうですね……」
ニースの思いをきちんとくんで、上から下までニースの姿を眺めてレナが答える。
「私の見るかぎりでは、どこもおかしなところはありませんわ」
「そう?そうかしら?」
「ええ。きっとジャックさまはニースさまのあまりのきれいさにおどろかれますわ」
レナの言葉にニースはかあっと真っ赤に頬を染めた。
「そう、かしら」
「ええ。ですから安心してお待ちください。約束の時間までもう少しですよ」
レナが微笑みとともに告げる。
ニースはそれでも落ち着かなくてそわそわととびらを見つめる。いつ開くのだろう。
ついせわしなく何度も時間を聞いているから、まだ時間にはなっていないこともわかっている。それなのに聞かずにはいられない。
「ま、まだかしら」
「まだ少し時間には早うございますから」
「そ、そう」
ニースはうつむいて眉根を寄せる。
落ちつかない自分が恥ずかしい。けれど、気にすることをやめることもできない。
すっかり困ってしまっているニースをレナがくすくすと笑った。
「ニースさまったら。そんなに心配なさらなくても、ジャックさまは時間までにはちゃんと来られますわ。ジャックさまは約束を破るような方ではありませんもの」
「自分でも不思議なの。ジャックさんがいらっしゃるって思ったら、いても立ってもいられないの」
消え入りそうな声で、ニースがつぶやく。
目が合うとうれしくてしかたがないのに、気恥ずかしくてついそらしてしまう。
前は気にならなかったのに、ほんの少し手がふれるだけでかあっと身体が熱くなって思わず手を離してしまう。
「わたくし、おかしいのかしら」
「いいえ、そんなことはないと思います」
「そう、そうかしら」
ニースは不安そうに手をぎゅっと組んだ。
「おかしな娘だと思われるでしょうか」
「そんなことありませんよ。ジャックさま、喜ぶことはあっても嫌がられることはぜったいにありませんよ」
レナはふと顔を上げると、ニースの耳元に口を寄せた。
「ニースさま、いらっしゃいましたよ」
廊下をこつりこつりと規則正しい音を立てて歩いてくる足音が聞こえてくる。それがぴたりと部屋の前で止まる。
ニースがちらりと視線を上げるのと、部屋の戸が開かれるのはほぼ同時だった。
ニースはあわててうつむいた。
「にっこり笑ってお迎えなさいませ」
レナがにっこり笑った。
すっかり支度をすませて座って待っているニースを見て、戸をあけて顔をのぞかせた青年が少し歩調を速めてテーブルに寄ってくる。
鮮やかな赤い髪の青年は、時間を気にするようにそわそわとしながら、
「約束の時間に、遅れちまったか?」
いつものくだけた口調で訊ねた。
厳しい教官がいるときにこんな話し方をすると、容赦なくばしばしと叩かれるのをニースも見ている。
それを警戒して、ニースといっしょにいるとき以外ではこんな話し方はしなくなった。
それはつまり、ニースといるときには素の自分を出してくれているということだ。そんなちょっとしたことが、ニースにはうれしい。
くすくすと笑って、ニースは首を振った。
「いいえ。だいじょうぶ、間に合ってますわ」
「そうか。待たせちまったかと思った」
「そんなに待ってませんわ、ジャックさん」
ニースは幸せそうに顔をほころばせる。
待っている間は、ずっとジャックのことだけを考えていられる。待つ時間も幸せなのだ。
「立ったままなのもなんですから、座ってくださいませ」
「そうだな」
ジャックはレナの引いたいすに腰かけた。
「お、今日はカップケーキか」
バスケットの中には、おいしそうなきつね色のカップケーキが載っている。
ニースが照れたように笑った。
「はい」
「ジャックさま、今日はニースさまお一人で作られましたのよ?」
レナがこそこそとジャックに話しかける。
「ニースが、一人で?」
ジャックの目が向けられて、ニースはしどろもどろになる。
「えと、その、だから……失敗しているかもしれません」
「…………」
ジャックは無言でじっとカップケーキを見つめている。
困り顔でずっとうつむいていたニースは、チラリとジャックを見上げる。
ジャックはにかっと人懐っこい笑みを浮かべた。
「すごいな。ニースは」
「え?」
「菓子作り、まだ始めたばかりだろ?ついこの間までやったこともなかったって言ってたじゃないか。それが、一人で作れるまでになったんだぞ?」
ついこの間まで、というか、料理作りを始めてからも、しばらくは厨房の料理人たちに才能ナシの太鼓判を押されていたくらいだ。料理に関しては天災的に不器用だった。
白い紙に包まれたカップケーキをひょいと手に取り、ジャックはぱくりとかぶりついた。
「あ……」
不安そうにそれを見つめていたニースがはらはらしながら見守る。
もぐもぐとおいしそうに食べるジャックはニコニコと笑っている。
「うん。うまい。うまいじゃん」
「ででで、でも、失敗しようのない簡単なものですから」
「失敗しなかったんだろ?じゃ、いいじゃないか。ニースは上手に作った。もっと自信を持てばいいさ。俺はニースの作るもの、いつも楽しみにしてるんだ」
「ジャックさん……」
ポーっとほおを染めて、ニースがきらきらとかがやく黒い瞳でジャックを見つめる。
レナはそれを見ながら満足そうにうなずいた。
やっと落ち着いて、ニースはジャックに訊ねた。
「お勉強は、お忙しいのですか?」
ずっと気になっていたことを訊ねると、ジャックは手にしていたカップケーキを皿に置いた。
「うーん、まあ、落ち着いたって言えば、落ち着いたんだけど」
「そうなんですか?でも、会えない日もあるじゃないですか」
前には、ジャックがマナーと礼儀作法とこの町についての勉強をしていたときには、さすがに会えない日はなかった。
落ち着いたという言葉通り、家庭教師に聞いたところ、ジャックはマナーと礼儀作法はもう終えたという話だった。
それなのに、会えない日があるというのはどういうことなのだろう。
ジャックはけろりと言い放つ。
「ああ、それは、伯爵に頼まれたんだよ」
「お父さまに?」
エラーナ伯爵からは何も聞いていない。
ニースが不審げに聞き返すと、ジャックはこくりとうなずいた。
「俺が空いた時間に外で剣を振り回してんの、伯爵に見つかっちまってさ。そんなに剣を振るいたいなら、ムダに体力を使わずに、役立つところでやってくれって」
「え?まさか、傭兵家業に?それとも、軍にですか?」
不安そうにすぐさま訊ね返すニースに、ジャックが苦笑して答える。
「いや、騎士団だよ」
「騎士団?」
ニースは意外な答えに目を丸くした。
騎士団は各領主たちが独自に持つことを許された、いわゆる自警団のようなものだ。
国のために作られた軍隊とは組織も目的も存在意義もちがう。
「ジャックさんが、騎士団に?」
「所属することになったわけじゃないんだ。騎士団で剣を教えることになってさ。他人に教えるなんて、俺は絶対向いてないって思ってたんだけど」
「けど?」
上目遣いに見上げると、ジャックがきらきらと少年のような目で楽しそうに話し出す。
「それが思ったよりもおもしろくってさ。騎士団の連中も一生懸命覚えようとしてくれるし。一人でやるよりも、やっぱり剣を交えた方が勘も鈍らないし」
(剣術に負けてるんですか、わたくし)
ニースにも息抜きでもあり、楽しみでもある料理の時間やさいほうの時間がある。
ジャックの趣味である剣が使える時間ができたのはいいことだと思う。
けれど、それを素直に喜べない自分がいる。
二人で会える少ない時間を削ってまで、剣をにぎっていたいんだろうか。
そう思ってしまういやな自分が。
しゅんとうつむいたニースに、同じように視線を落としていたジャックは気づけなかった。
「それにほら、いつまでも伯爵に世話になってるわけにはいかないし」
「えっ?」
ニースは下を向いたまま目を見開く。
世話になっているわけにはいかないということは、世話になる気はないということだ。
それはつまり―――
「どういう、意味で言ってるんですか?」
震える声で訊ねる。
ジャックのことを信じたい。
けど、ジャックにつりあう自分であるのかどうか、自信がない。
レナは思わぬ展開におろおろと二人を見つ めている。
ジャックはニースのいつもと様子のちがう声に怪訝そうに顔を上げた。
「どういうって、少しは頼れるところを見せておかないと、いつまでたっても俺のこと認めてもらえないだろう?」
弾かれたようにニースが顔を上げる。
不安そうなニースの顔が、ジャックの穏やかな青い瞳に映っていた。
「それに、いずれはニースがこの町を治めるんだ。万が一のことを考えると、自警団がしっかりしてれば、町の内外で何か起こってもそれほどあせらなくてもいいはずだし」
「あ……」
ニースの白いほおがさっと朱に染まる。
「いつまでもニースにくっついているだけ、って思われたら、とても娘は任せられないって思われるだろう?そうしたら俺、ニースとはいっしょにいられなくなっちまう」
「ジャックさん」
「ただでさえさ、度胸あるお嬢さまのほうが何倍も頼りがいがあるしな」
なんといっても、右も左もわからない町へ家出してしまうお嬢さまだ。
ニースが恥ずかしさにかあっと頬を赤らめる。
「ジャックさんったら」
「ニースの方が勉強が早いからな。こんなに勉強させられるのも、かなり久しぶりだから俺にはけっこうストレスなんだよ」
ジャックはふうっとため息をもらす。ジャックにも苦手なものがあると知って、ニースはくすくすと笑った。
「できがいいと聞きましたが?」
「そりゃ、多少はいいとこくらいあるって見せたいじゃないか。俺にも見栄くらいはあるからな」
「あら、見栄はってましたの?」
「どうしようもないバカとか思われたら、いやだろ?」
うんざりしているようなジャックを声を上げて笑って、ニースは息を整える。
「調子をくずすほど無理はなさらないでくださいね」
「もちろん。丈夫なのは俺のとりえだからな」
「まあ、よく言いますわね。初めて会ったとき、大怪我してらしたのはどなただったかしら」
からかうように目を細めると、ジャックが渋い顔をする。
「あれは、だから、不慮の事故だろ」
「そういうことにしておいてさしあげます」
「なんだよ、それ。ほんとだって。油断しなきゃ俺はけがなんてしないぞ。それに、もうほとんど治ってるし」
「はいはい。そういうことにしてさしあげます」
「失礼します、お嬢さま」
奥の通路からメイドがやってきて、少し離れたところで腰を折った。
「なんですか?」
「旦那さまがお呼びでございます」
「お父さまが?」
ニースが小首をかしげる。
今朝、父の授業を受けたときには特に何も言っていなかった。
「今日はここまで、かな」
ジャックが苦笑しているのを見て、ニースはむうっと眉間にしわを寄せる。
「もう少しお話できるはずでしたのに」
「まあいいさ。明日もあるし。な?」
「はい」
残念そうなニースを見て、うれしそうに目を細めると、ジャックはレナを見上げた。
「レナ、このニースのケーキ、もらって帰ってもいいか?」
「はい。お包みいたします」
レナが持ってきていたバスケットにナプキンを敷いてその中にカップケーキをつめている。
「いいか?ニース」
「え?ええ、お口に合いましたか?」
「ああ。うまかった」
にっこりと笑うジャックを、ニースは頬を染めていとおしげに見つめる。
「よかったです」
思い描いていた夢が、一つかなった。
こうして、これからも少しずつかなえていくことができるはずだ。
レナの用意したバスケットを手に、ジャックが立ち上がる。
「じゃあ、また明日な」
「はい。また、明日」
片手を上げて歩いて行くジャックの背を、ニースは見えなくなるまで見送った。
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