0.プロローグ


 

「聞いてるの、ヴィクトール!」

 ひじかけにひじをついて目を閉じていたヴィクトールはゆっくりと目を開く。

 落ち着いた緑色の瞳が目の前の憤慨する貴族的な容貌の男を映す。

「ああ、聞いているよ、ゴードン」

「ひどいと思わないかい?!僕は恥をかかされたんだよ!あんな思いをしたのは生まれて初めてだ!」

「だが、先に彼女を、エラーナ伯爵家を裏切ったのはきみのほうだと聞いているが」

「うっ、そりゃ……そうかもしれないけど」

 ゴードンは浮かしかけていた腰をソファに置きなおす。

 友人が婚約していた女性から婚約破棄を突きつけられた話は聞いた。そのことでこってりと父親にしぼられたのも聞いている。

 いつもは悠然とした友人のこんな姿は、いっしょにつるみ始めてから初めて見る。王太子であるヴィクトールにも、なんら恐れを抱かないやつなのに。

 どこか小さくなっている友人の姿にヴィクトールはふっと笑った。

「だが、うわさとちがうな。うわさに聞くエラーナ伯爵令嬢はおとなしくてろくに口答えもできない気弱な令嬢だと聞いたが」

「僕も最初はそう思っていたよ。けど、あれでニースは意外と芯が強いんだ」

「それは、きみならもっと早くに知れたんじゃないのか?」

「どういう意味だい?」

 けげんに見上げるゴードンにヴィクトールは優雅にカップを持ち上げてちらりと視線を向ける。

「きみは、彼女の婚約者だったんだから。彼女と接する機会がもっとも多かったんだろう?彼女もきみと同じように猫をかぶっていたのかどうか、きみなら判断できただろう」

「ニースはそんなことができるようなタイプじゃないよ」

 ばかばかしいとでも言うようにゴードンが片手を振って否定した。

「じゃ、そのように彼女を変えた人物がいるわけだね」

 ゴードンが眉をひそめてはっと顔を上げる。

「そういえば、伯爵の家を出るときに赤い髪の男とすれちがったよ。伯爵家にふさわしいとは思えない、妙ななりをしてたから、よく覚えてる」

「じゃあ、その男かな。おとなしくていつもうつむいていたらしいニース嬢を変えたのは」

「けど、そんな男には見えなかったよ。とても伯爵家とつりあうようには見えなかったし。町を歩いているそのへんの庶民みたいなかんじだったけど」

「ニース嬢は家出していたんだろう?じゃあ、そのニース嬢が町で世話になった人物かもしれない」

「ああ、そうか……」

 ゴードンが考え込むように真剣な顔で眉を寄せて口元に手を当てる。

 ゴードンはカップを見つめていたが、じとーっとうらめしげにヴィクトールを見上げた。

「きみはいいよね、うるわしのカスティリア王女殿下と晴れて結婚だ。毎日楽しい生活を謳歌してるんだろ?」

「これでもわたしなりに努力はしたんだ。それに、恨み言をわたしに言うのは筋違いだろう。きみはニース嬢よりも例のメイドのお嬢さんを選んだんだろう?」

「火遊びくらい、きみだってしたことあるだろう」

「相手の家で、のうのうとそんなことをしていたらまずいことくらい、気づかなければならなかったんじゃないか?」

 にこりと笑うヴィクトールの余裕さが不愉快で、ゴードンはふいっと顔をそむけた。

 ヴィクトールはなにかを考え込むように腕組みをする。

「それにしても、赤毛の男か」

「なんだい?」

 怪訝に顔を上げたゴードンに、片手を振ってヴィクトールは笑った。

「いや、ちょっと小耳に挟んだ話を思い出してね。ニース嬢はエラーナ伯爵の娘だったね。エラーナ伯爵領は隣国と接している」

「それがなにか?」

「カスティリア王女が好いた相手は、たしか赤毛の男じゃなかったかな」

「例の赤い悪魔のことかい?まさか!死んだんだろう?」

 隣国の赤い悪魔は国を越え、周辺諸国に恐れられた剣豪―――だが、国のために死んだはずだ。

「生きているというのかい?エラーナ伯爵領で?」

「ありえない話じゃないよ」

 ヴィクトールはほのかに笑って、あごに手を当てた。

「ニース嬢のところに現れた赤毛の男か。念には念を入れるべきかな」

 

          

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