2.ニースへの手紙
伯爵に呼ばれたニースは、伯爵の部屋を訪れていた。
「お父さま、ニースです」
「ああ、入ってくれ」
父の部屋に入ると、腕組みをした父と、なにやら難しい顔をした母がソファに座っていた。
二人でそんな顔をしているのはめずらしい。
「どうかなさったのですか?」
「ニース、こちらへ来なさい」
父が複雑な表情のまま、ニースを呼ぶ。
ニースは首をかしげながらソファに近寄る。
「そこへ座りなさい」
「はい」
両親の向かいに腰をすえて、ニースは不思議そうな顔で父母を見つめる。
「なんでしょうか」
「まず、これを見てほしい」
エラーナ伯爵がすいっと押し出したのは、一枚のなんのへんてつもない白い封筒だった。
「手紙、ですか?」
「そうだ。とりあえず、読んでくれ」
なぜか構えた感じの受け取れる両親に首をかしげながら、ニースは細い指でつまんで封筒を手に取った。
宛名はエラーナ伯爵、つまり父になっている。差出人は書かれていないが、緑色のろうに凝った意匠の刻印がおされている。ニースは目を丸くした。
この紋章は、王家のものだ。
「お父さま……」
伯爵は無言でこくりとうなずいた。
ニースは手紙を取り出して二つ折りの白い紙をぺらりと開いた。
お決まりの時候のあいさつが並び、エラーナ伯爵の消息を尋ねる文面が続く。
最後まで読みすすめて、ニースは手紙から視線を上げた。
「王太子殿下からのサロンへの招待状ですか」
「そうだ。宛名は私だが、明らかにおまえを対象にしている」
「わたくしですか?」
ニースはおどろきに目をみはった。
今までニースにそうしたものが送られてくることなどなかったからだ。
そもそも、ニースは夜会にはほとんど出ずにいままで暮らしてきた。どうしても出なければならない夜会のみ、行く直前に父に相手の名とその子女の名を聞いて覚えていた。
ニースは人名を覚えるのは苦手だった。特に会ったこともないような人物は、覚えられないタイプだった。
「ですが、お父さまへの手紙なのでしょう?どうしてわたくし宛てになるんですか?わたくしにそういう手紙が来たことなんて、ないと思うのですが」
「それとなく、探りを入れたところ、この手紙は若い娘や息子を持つ貴族たちに送られている。つまるところ、王太子殿下は先ごろ式を挙げられた例の王女殿下の友人を作ろうとしているのではないかと、私は推測している」
言われてみて、ニースはそういえばと思い出す。
まだゴードンが婚約者だった頃、たしかそんな話をしていたような気がする。
「でも、わたくしはそういうことには興味が……」
「なにを言っておるのだ、おまえはのちのちこの領地を継ぐのだろう?」
あきれたように伯爵が娘を見やる。
「顔見せくらい、早くやっておかねば困るだろう。おまえが世話になるだろう者たちもいるかもれしれないのだぞ?」
「でも……」
ニースはためらうようにちらりと窓の外に視線を向ける。
昔ならただ知らない人たちに会うのがいやだった。
けれど今は、ここを離れたくない。
隣国に接したエラーナ伯爵領は王都から遠い。その間、ジャックと会えないのだ。
うつむいた娘に王都行きをうながすように夫人も声をかける。
「ニース、2、3週間の旅行と思えばすぐですよ。悪くない話だと思います。あなたには、もう少し友人があってもおかしくはないですもの」
「お母さま……」
「ずっと領地に引きこもっているだけでは、新しいものは見えてきませんよ」
「……少し、考えさせてください」
ニースの葛藤がわかっていたのか、伯爵はすぐさま了承した。
「あら、ニースさま」
ぱたぱたと廊下を走っていたら、洗い物らしきものを抱えたレナが向かいから歩いてきた。
「レナ」
「どうなさったんですか、廊下を走るなんておめずらしい。よほどお急ぎなんですか?」
「レナ、ジャックさんを知らない?」
「ジャックさまですか?ジャックさまならご自分のお部屋のほうへ歩いて行かれましたよ」
「ありがとう!」
レナの横を通り過ぎて、ニースは階段を駆け下りる。
通いなれた部屋の戸の前まで走り、
「ジャックさん!!」
「うわっ!!」
勢いよくドアを開けたら、ベッドに腰かけたジャックは半裸の状態だった。
ほどよい筋肉のついた胸板を見て、ニースは一瞬にして沸騰した。
「きゃああああっ!!」
くるりと背を向けたニースは両手をほおに当てた。
顔が熱い。
「ニースさま、殿方の部屋に入るときにはノックをなさいませ。こういうこともあるんですよ?」
第三者の声におどろいてもう一度振り返ると、ジャックの前に白衣の紳士が立っていた。
「ノルさま」
初老の紳士はエラーナ伯爵家のお抱え医師だ。必要があれば、騎士団の手当てにもおもむいたりもする。腕のよい医師だった。
あまりけがをしないニースも、かぜをひいたときにはお世話になった。
「けがの治療を、アネットに代わってやってもらってたんだよ。屋敷を抜け出して手当てしてもらいに行ってたら、伯爵に見つかっちまって」
ノル医師の向こうから、困ったようにジャックが告げた。
「知りませんでした」
いつけがのことを聞いてもだいじょうぶだいじょうぶと言っていたから、もうすっかり治ったものとおもっていた。
あんなにひどいけがをした人など、ニースの周りにはいなかったから、けがが治るのにどのくらいかかるのか知らなかった。
だから、まだジャックが医師にかかっていたことも、前に屋敷を抜け出して町へ治療に出ていたことも知らなかった。
ジャックは照れくさそうに笑い声をあげる。
「いや、でも、さすがは伯爵だな。なにやってても見つかっちまうよ」
「わたくし、知らないことばかりですね」
「そ、そんなことないよ。悪かった。心配させたくなくてさ」
ひょこっと顔をのぞかせたジャックが心底困った顔をしていたので、思わずニースは笑ってしまった。
「それで、今度こそ本当にもうだいじょうぶなんですか?」
「それはわたしが保証しよう。傷もだいぶきれいにふさがっている」
ノル医師がジャックに代わって答えた。
「そうですか」
ほっと息をついたニースを見て、ノル医師はジャックを振り返った。
「あのけがで動き回っていたのには正直目を疑ったが、幸い良い医者に恵まれたらしく、手当ては完璧でしたからね」
「アネットはいい腕してるからな」
ジャックがうなずきながらつぶやく。
ニースはこくりとうなずいた。
「ええ、素敵なお医者さまです。ムチャばっかりなさるジャックさんを止めることができる方ですし」
「どういう意味、それ?」
上着をはおりながら、ジャックが不満そうにくちびるをとがらせる。
「言っても聞かれないんですもの、ジャックさん」
「必要に迫られて、聞かざるを得ないんだからしょうがないだろ」
「おとなしくなさればすぐ治るのに、それを待てないジャックさんも悪いですわ」
「けがなんかで寝込んでられなかったんだ。仕事しなきゃ食えないんだから」
ノルがテーブルの上においていたかばんを手にした。
「それでは、私はこれで」
「ありがとうございました」
座ったままだが、ジャックが頭を下げた。
ニースも腰を折った。
「ノルさま、ジャックさんを治してくださってありがとうございました」
「いいえ、患者がいれば治すのが医師のつとめですから。それでは、これで」
ノルも目礼してジャックの部屋を出て行った。
ボタンをとめきって、ジャックが顔を上げる。
「それより、なにかあってここへ来たんじゃないのか?」
「そうでした。ジャックさん、わたくしにサロンへの招待状が来たんです」
「サロンへの招待状?」
「ええ。王都でのサロンに招かれて……」
「へえ。悪い話じゃないじゃないか」
ジャックがことさら明るい声で言う。
我がことのようによろこんでみせるジャックの反応は、ニースの予想していたものとはちがっていた。
ニースは小さく首を振った。
「でも、でも、わたくしは一度もサロンになんて出たことないんです」
父に連れられて、夜会に出たことくらいはある。
けれど、それほど仲良くなった貴族もいなかったから、サロンになんて呼ばれたことはなかった。
「出てみるのも悪くないんじゃないか?なにごとも経験だろ?」
「でも、サロンになんて出ても、わたくしなにをしていいのかわかりませんし」
困りきったニースを見て、ジャックがわずかに首をかたむけて髪をかきまぜた。
「んー、俺の聞いたところじゃ、貴族のサロンって、主人が客をもてなすんだろう?ニースがそんなに気に病まなくても、なんとかなるんじゃないか?」
ジャックはジャックなりにニースのことを考えていた。
ニースのために、貴族とのパイプを作るべきだと。
自分やニースの家族、そしてレナでは力になれないことでも力になってくれるような、そういう友人を作るべきだと。それがニースのためにもなると思った。
だからこそ、かつての記憶を総動員して、それほど行ったこともないサロンについて、ニースにいい印象を与えようとした。
だが、それはニースには届かなかった。
「でもでも、王都に行ったら、しばらくは帰ってこられません。行って、帰ってくるのに二週間近くかかります。それに、サロンに出ていたら、下手をしたら一月くらい帰ってこられなくなってしまうかもしれないし……」
ニースは両手を合わせて言い訳のようにジャックに語る。
ジャックに引き止めてほしかった。
ニースはいまの自分をとりまく環境に満足していた。父と母がいて、レナがいて、そしてなによりジャックがいる。
ほかにはなにもいらないくらいに、不足はなかった。
「そんなにここを離れるのも初めてですし……」
「俺のことなら気にしなくていいって。ニースが向こうでがんばってる間に、俺は勉強を済ませて、騎士団をきたえて、仕事も探さなくちゃならないし、町にも―――」
「仕事って、なんのことですか?!」
ニースは思わず声を荒げて、大きな声で詰問していた。
意外なニースの剣幕におどろいて、ジャックが青い瞳を見開く。
そして言葉を選ぶように慎重に口を開く。
「……俺だって、いつまでもぶらぶらしてるわけにはいかないだろう? 伯爵にも役に立つってところを見せたいし、世話になりっぱなしっていうのも、な」
「だから、騎士団をきたえるんだっておっしゃっていたじゃないですか!」
「ああ。けど、あれだって、いつかは終わりがくるだろう?」
エラーナ伯爵領の騎士団はいまはまだはっきり言って頼りにならない。だがある程度使えるようになったら、ジャックが教えるよりもジャックに習った先輩騎士団員が教えるほうがいろいろと都合がいいだろう。
「終わってから、俺のできることってこれだけだったんだって思うの、いやだからさ」
ニースは夜色の瞳を揺らしていた。
ずっとためこんでいた不安が、自分の中で爆発してしまったような気がした。
だから言うつもりも、思ったこともなかったようなことを告げてしまった。
「結局ジャックさんは、わたくしといるのがいやなんですか?」
静かな声音でこぼすニースにむっとしてジャックが言い返す。
「どういうことだよ?」
「ジャックさんは、ここにいるのが窮屈なんでしょう?!」
「そんなこと言ってないじゃないか」
「屋敷の中に閉じ込められてるみたいで、いやなんでしょう?実際、それに近いですものね。屋敷の中と、せいぜい外に出られるのは庭と隣接した騎士団の鍛錬場でしょう?いままでは好きなところへ行けていたから、息苦しいんでしょう?!」
「べつにそんなこと思ってねえよ」
険しい顔をして、低い声でジャックが言う。
「そうじゃないですか!だから外へ外へと出たいんでしょう?!わたくしといるの、いやなんですね!」
「ちがう、俺は―――」
「もういいです!ジャックさんのバカ!もう知りません!!」
ニースは言い切って部屋を飛び出していった。
開け放されたままのとびらを見つめて、ジャックは重いため息をもらした。
ニースが求めていた言葉を、ジャックもわかっていた。言わないようにするのにジャックも気力を使っていた。
ともすれば、それを口にしてしまいそうな自分を抑えるのに精一杯だったのだ。
行くなよ。
ニースにはそういうの、向いてないだろ。
そういうことを思わず口走ってしまいそうだった。
ニースが怒ったのは初めてだ。それだけ追い詰められていたのだろうか。
しばりつけたいわけじゃない。
いま、この瞬間だけを求めているわけでもない。
「俺は、おまえとのこれからを考えているつもりだ。おまえだってそうなんだろう?」
ニースが自分にできることを懸命に考えてくれて、ジャックを闇の中から救ってくれたから今がある。
ジャックだってニースのためにやれることはなんでもやってやりたい。
だが、いまは不安定なニースを支える言葉を言うべきだったのだろうか。
「なんて言えばよかったんだ?」
自分だけでは答えの出そうにないことを、ジャックはぐるぐると考えていた。
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