第五章 氷の女王
2.
戸口に立つ男を見て、チェルトは顔を強張らせた。
いつまでも放っておいてもらえるとは思ってなかった。
チェルトはしぼり出すように言葉をこぼす。
「フィリップ……」
「いつまで経っても帰ってこられないようでしたから、陛下の命により、お迎えにあがりました」
「だれだい、アンタ」
ルカがにらみ殺すような視線を送るが、フィリップはそれくらいではびくともしない。
チェルトだけを見据えたまま、微動だにせず立っている。
「これも、アンタのしわざかよ?」
睨み続けるバスローブすがたの女にチラリと視線を向け、フィリップは「いいえ」淡々と答えた。
「協力を感謝する」
ついっとレオンの方を見て、フィリップが言うと、娘たちは信じられないという顔をする。
「ホントなのかよ」
「うそでしょ……」
「レオンさん……」
三人娘から顔をそむけて、レオンは背中を向けた。
「わりぃな」
「レオン!」
リズリアの叫ぶ声が聞こえたが、レオンは振り返らなかった。
「陛下がお待ちです、帰りましょう」
いつのまにか近くまでやってきたフィリップを見上げ、チェルトは小さくつぶやく。
「こんなやり方をしなくても、よかったのに」
でも、言わなくてはならないことがある。
チェルトは皿をテーブルに戻して、フィリップにまっすぐに顔を向ける。
「おねがいです、彼女たちに手を出さないでください」
「チェルト……」
リズリアが苦しそうにつぶやく。
フィリップは三人をチラリと見て、よく聞こえるように言った。
「アンジェラさまを愛しておられるのなら」
チェルトが息をのむ音が静かな部屋にはっきりと聞こえた。
「おとなしくお帰りください」
チェルトの瞳がせつなげに揺れる。
「アンジェラ……」
そのせつなそうなつぶやきが、リズリアの胸をぎゅっとしめつける。
胸が、すごく痛かった。
「行かないで……」
言わずにはいられなかった。
たとえそうしてもらえるとは思っていなくても。
「行っちゃダメ……チェルト……」
チェルトの柳眉が苦しげに寄せられる。
細い金色のまつげがふるふると震える。
チェルトはリズリアから顔をそむけた。
「ごめん、リズ……」
すくっと立ち上がる。
それほど食べていないチェルトはあまりしびれ薬が効いていないらしかった。
リズリアは落胆の表情で目を伏せる。
こうなることはわかっていた。
チェルトがこうすることを選ぶだろうことは。
フィリップがチェルトをうながす。
「行きましょう」
身体の動かないリズリアは顔をそむけることができない。
せめてと思い、瞳を閉じた。
「リズ、ルカさん、エリアさん。ごめんなさい」
苦しげなチェルトの声が聞こえる。
だが、チェルトがどんな顔をしていたのか、わからなかった。
「その薬、しばらくしたらきれいさっぱり消えるからよ」
レオンが申し訳なさそうに言った。
「ホント、わりぃな」
「くそったれ!」
ルカの罵声が聞こえる。
リズリアは涙をこらえようと必死に目をつぶっていた。
「バカ……」
目頭が熱い。
だれに言っているのか、自分でもよくわからなかった。
こめかみを伝って、なにか熱いものがぬらしていく。
静かな部屋を、リズリアの小さな嗚咽が満たしていた。
「よう帰ったな、チェルト」
王の部屋で迎えられたチェルトは、固い表情のまま立っていた。
朝も早いというのに、すっかり身支度を整えている王は、今日も美しかった。
チェルトは顔を伏せた。
「ただいま、戻りました」
「元気そうでなによりじゃ。大儀であったな、フィリップ」
王のねぎらいの言葉にフィリップは無言で深く頭を下げた。
「それにしても、もっとはよう帰ってくると思っておったのに、なにをしていたのじゃ?」
「陛下、聞きたいことがございます」
問いに答えないばかりか、逆に聞き返してくるチェルトに、王は寛大にうなずいた。
「なんじゃ?申してみよ」
「モルトーブに視察に向かわせられたのは、何のためですか」
「視察は、わらわがウィザードに課している仕事の一つであろ?まあ、そなたが行くほどのことではなかったやもしれぬが」
王はなんでもないことのように答える。
ウィザードとして、視察におもむいたのはこれが初めてだった。
七年前、城に連れてこられてから、城を出たのは初めてだったのだ。
情報が与えられないよう、隔離されていたことは知っていた。
そのことについて、深く考えたことすらなかった。
その結果が、これか。
チェルトは固くこぶしをにぎりしめた。
「僕は、そこでなにをされていたのですか?」
視察先でのできごとを、チェルトは覚えていなかった。
連れて行かれた先で、急に気分が悪くなったと思ったら記憶が途切れて。それっきりだ。
次に気づいたときには、馬車に乗せられて帰っている途中だった。
リズリアたちの問いに、答えなかったので も答えたくなかったのでもない。
言ったように、答えたくても答えられなかったのだ。
「視察が仕事なのに、なにもしていませんでした。それなのに、陛下はねぎらってくださる。いったい、なにが目的で僕らは村へ派遣されるのですか」
「……強い魔力を感じてそなたが倒れたのだと補佐官たちに聞いておる。そこでの仕事は滞りなく終えたとものう。たとえそなたが仕事をしていなくとも、なにかあったときのために補佐官と騎士がついて行くのじゃ。そなたが気に病むことはない」
身を守るという名目の処刑人と、監視官という名の補佐官が。
おかしい、明らかに。
それでは自分が行く意味がない。
自分がいる意味が。
「答えてくださらないのですね」
のらりくらりとかわす王に、チェルトはくちびるをかみしめる。
「そなたは知らなくてよいことぞ」
「もう一つ、聞きたいことが、あります」
―――七年前に、エンフェスの民は滅亡したんだよ
市場で会った商人の言葉が脳裏にひびく。
チェルトはぎゅっと指が白くなるほど固くこぶしをにぎりしめる。
「エンフェスの民が、滅亡したのは本当ですか?」
「そなたの耳にも入ったのか」
王はふうっとため息をつくと、豪華な椅子に腰かける。
「あれは悲しいことじゃったな。わらわも遺憾じゃった」
―――聞いたところによると、王の実験で滅亡したっていう話だ。その実験ってのが
チェルトはぱっと顔を上げる。
「陛下、人体からジェムを取り出しているというのは、本当ですか?」
「わらわがかえ?」
王は心外だとばかりに目を見開く。
「ロワード村から始まった、人体からジェムを取り出すという事件、通称ロワード事件というそうですね」
あれとて、ウィザードが起こしたと言われているにも関わらず、まったく耳にも入ってきたことがなかった。
そのこと自体、考えてみればおかしな話だ。
「その事件というのは、七年前、エンフェスの民の村からすでに始まっていたのではないのですか?」
「わらわがしたと、そう申すのか?」
王の柳眉がひそめられる。
チェルトは王を強い視線で見据える。
「あなたは、僕からたくさんのものを奪った。それでもあなたに従ったのは、守りたかったから。姉さん、アンジェラを、僕を育ててくれた父さんたちを、エンフェスの民のみんなを守りたかったから」
「そなたの父は、あの辺境の民ではないではないか」
「僕にとっては、もう一人の父さんと母さんだったんだ。なのに……」
ここでの生活と引き換えに、守られるはずではなかったのか。
今まで耐えてきたのは、そのためだった。
それだけのためだったのに。
「あの一連の事件。ただの事件ではなく、あなたが故意に起こされたものだったのではありませんか。ねえ、氷の女王!」
王の瞳がすうっと冷たく冴える。
湖面のような碧い瞳が、氷のように冷たく光る。
「わらわではない、この国の王たちが悪いのじゃ。わらわの大切なものをなくすから」
王が立ち上がる。
その身体から冷気が出ているのではと思うほど、部屋の気温がぐっと下がる。
チェルトはごくりとのどをならす。
王の胸で揺れる青い宝石が妖しいまでにギラギラとかがやく。
ゆっくりと、王が近寄ってくる。
「わらわには、あれがないと困るというに。代々、わらわが守ってきてやったという、その恩も忘れおって」
「守るべきあなたが、守るはずの民から奪うのですか?」
「ふん、今までわらわに言い返すこともできなかった小僧が、一丁前にものを言うようになったか。永い時の果てに、わらわの真の名すら忘れた分際で。そなたらが使うはずのアレすら、ろくに使いこなせぬ小童のくせに」
「っ!」
言い返せなくて、チェルトはすいっと視線をそらす。
ふと、王がいぶかしげに柳眉をひそめる。
「チェルト。そなた、あれの気配がせぬな」
はっとチェルトが目を瞠る。
そういえば、リズリアに預けたまま、返してもらうのを忘れていた。戻るときには、持って帰らなくてはと思っていたのに。
視線をさまよわせているチェルトに王が詰め寄る。
「そなた、ドラゴンの瞳はどこにやったのじゃ」
王がチェルトの肩に両手を置いてがくがくとチェルトを揺さぶる。
されるがままに、チェルトは揺さぶられる。
ここで素直に答えたら、彼女たちに危害が及ぶだろうか。
そう考えたら、言い出せなかった。
「馬車の事故のときに、落としてしまいました」
「なんと……」
王の手が力なくチェルトから離される。
ふらふらとおぼつかない足取りで後ろに下がる。
「……なくしたのか?アレも、なくしてしまったのか?」
王は細い腕でその身体を抱きしめる。
「なんということじゃ……契約違反ではないか。守ってやる代わりに、護ってくれると約束したのに……」
王の変わりように戸惑い、チェルトも後ろに下がる。
本能が警鐘を鳴らし続けている。
危険な気がした。
王がゆっくりと顔を上げる。
その昏い色を帯びた碧い瞳と視線がぶつかる。
「そんなに、似ているのに」
「…………」
「同じ顔をしているのに、あやつは約束をしておいて、そなたは約束を破るのか」
「陛下……」
少しずつ足を下げていくと、どんっと背中になにか固いものがぶつかる。
壁まで下がっていたことに気づくが、はっと視線を戻すと目の前に王が立っていた。
「しかし、そなたは戻ってきた。わらわの前に」
王の目は夢を見ているように妖しくかがやく。
ここではないどこかを見つめているようだ。
チェルトはかすれた声で告げる。
「陛下、お気を確かに。しっかりしてください」
「反故にすることは許さぬ。わらわとの約束は誓約じゃ。破ることは、できぬのだから」
王の冷たい両の手が、チェルトの頬にそえられた。
「お気をしっかり……」
震える声でやっと言うが、王の目はすでにチェルトを見てはいなかった。
「おまえとの約束は守る。愛している、シャスト」
「僕は、シャストじゃ―――」
王の顔が急激に近づいてくる。
二人のくちびるが重なった。
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