第三章 勇気のあり方
4.
ベッドに腰かけてぷらぷらと足を揺らしていると、
「チェルト」
名前を呼ばれ、座っていたベッドから飛んでいく。
「ねえさま!」
扉を開けて現れた少女に、よろこんで飛びつく。
幼いころに母を亡くしたチェルトにとって、二つ上の姉、アンジェラはいつもかまってくれるいちばん好きなひとだった。
飛びついてきたチェルトをあやすように、優しく抱きとめる。その弱いほうように、チェルトは不思議に思う。
なぜいつもみたいにぎゅっと抱きしめてくれないんだろう。
チェルトは首をかしげる。
「どうしたの、ねえさま?」
「チェルト……」
アンジェラはじゅうたんの上にひざをついて、チェルトを抱きしめる。
長い金髪が、鼻先にかかってチェルトは顔をしかめる。
「ねえさま、くすぐったいよ」
「チェルト、一度しか言わないから、しっかり聞いてちょうだい」
「なに、ねえさま?」
「お父さまが、亡くなられたの」
「……え?」
きょとんとして聞き返す。
まだよくわかっていないだろうチェルトに、かまわずアンジェラは話を続けた。
「兄さまも姉さまも、あの方の目には留まらない。次はきっとあなたが狙われてしまう」
「ね、ねえさま?」
「いい、チェルト。あなたはしばらくここを離れなさい」
それを聞いて、チェルトはわなわなとくちびるを震わせた。
「うちを、出て行くの?どうして?ぼく、悪い子だから?」
先生の大切にしていた観賞魚の代わりに、ガラスの器にカエルを入れたからだろうか。
それとも、台所の香辛料の中身を全部入れ替えたからだろうか。
はたまた先生の言うことを聞かず、勉強の時間にさぼって町へ出かけていたことだろうか。
考えてみれば、いまだに年甲斐もないいたずらばかりしていたように思う。
「ごめんなさい、ねえさま。もうしないから、だから、出て行けなんて言わないで」
「ちがうの、チェルト。ちがうのよ」
アンジェラは苦しそうにつぶやいて、チェルトを抱きしめる腕に力を入れる。
「あなたのために、しばらくはわたくしの知り合いにあなたをあずけようと思うの」
「なんで?やだよぉ、ぼくねえさまといっしょにいたい」
「おねがい、チェルト。わたくしを困らせないでちょうだい」
少女の甘いにおいが鼻をくすぐる。
チェルトはわからなくて、わかりたくなくて力いっぱい首を振った。
「やだぁ」
「あれからあなたを守るためには、こうするしかないの」
「やだぁ!いやだ!ねえさまといっしょがいい!ねえさまとにいさまといっしょがいい!」
「おりこうさんだから、わたくしの言うことを聞いてちょうだい、チェルト」
ふるふると言葉もなく首を振り続ける。
「必ずあなたを迎えに行くわ。必ず……みんなで暮らせるようになるから。わたくしもがんばるから。だから―――」
そこで言葉を切って、自分自身を元気づけるようにアンジェラは告げる。
「少しだけ、がまんしてちょうだい」
かないそうにないことを祈るように、一言一言にねがいをこめて。
愛する姉の切実な声に、チェルトは身を固くする。
これ以上言ってもなにも変わらないのが、チェルトにもわかった。
姉の決意は、固い。
「もう、決まってるんだね、ねえさま」
どれだけ言っても、変えられない。
泣き叫んでも、きっとアンジェラの意思は変えられない。
泣きそうに顔をゆがめ、口を一文字に引き結ぶ。
出発まで、立派でありたい。
せめて思い出の中にいい姿で残るように。
「いつ、出発なのですか」
震える声で訊ねる弟に、アンジェラの声がぬれる。
「できるだけ早く。できるなら明日にでも」
「そう、ですか」
「ごめんね、ごめんなさいね、チェルト。必ず迎えに行くから。だから待っていて」
チェルトは無言で大きく首肯する。
アンジェラの嗚咽の声がささやくように聞こえる。
「アンジェラさま」
姉付きの従者が、声をかける。
「わかっています」
アンジェラがチェルトからそっと腕を放した。
「荷物をまとめなさい。この子に、あなたを送っていってもらいます」
「よろしくおねがいします、チェルトさま」
アンジェラの乳母子でもある少年が、頭を下げた。
「これを渡してください」
アンジェラが従者に手紙を二通渡す。
「たしかに、承りました」
アンジェラの瞳に涙がにじんでいたから、チェルトは泣かなかった。
アンジェラの想いが、たしかに伝わったから。心はいつもつながっていられると思った。
姉がまちがっていたことは今までなかった。
信じている、姉の言葉を。
だから待っている。
いつまでも。
待っていられると、思ったのだ。
それなのに―――
「っ!」
がばりと身を起こして、チェルトは荒い息をつく。
全身がびっしょりと汗でぬれている。
額を伝う汗を、そででぬぐい去る。
冷たい月はチェルトをなぐさめないが、責めもしない。月明かりに照らされて、落ち着きを取り戻したチェルトは息をついた。
なつかしい、幼いころの思い出。
いつも優しい姉につながっている。
父がいそがしくても、母がいなくても、気になることなんかなかった。
周りは兄と上の姉にいい顔をしなかったけれど、自分には三人の兄姉はいつも優しかった。
いつだって父も気にかけてくれたし、兄も姉もかまっていてくれた。
いつまでも無邪気でいられた。
守られているだけでよかった。
今まで思い出すこともなかった、過去の話だ。
待っても待っても、その日はいつまで待っても来なかったから。
そんな日は来ないのだと、いつからかあきらめていたから。
あきらめることになれて、いつのまにか期待することすらやめていた。
「リズたちにあったから、思い出したのかな」
リズリアはいつだってあきらめない。
困難に立ち向かう勇気を持っている。
すなおに、それがすごいと思える。
そして、うらやましいと思える。
そんなことを考えたからか、無意識に押さえつけていたものが浮かんできたのだろうか。
「押さえつけて、いたのかな」
きっと、忘れていた。
待っていたことすら。
望みは絶たれたのだとあきらめて、思い出すのが苦しいから、なかったことにしていた。
チェルトはベッドから下りて、靴に足を入れる。
水が一杯、飲みたかった。
ばさばさと鳥の羽音が聞こえて、チェルトは窓に目をやる。
窓が開け放たれていて、紗幕が風に揺れている。
たしか、寝る前にはレオンが窓を閉めていたはずだ。
いぶかしく思い、チェルトは窓へと足を向ける。
窓の外、ベランダには、部屋を背にレオンの姿があった。
「レオン?」
「あ、起きちまった?」
レオンが振り返って困ったように笑う。
「わりぃな。起こすつもりはなかったんだけどな」
「たまたま、目が覚めただけだから」
チェルトもベランダに出ると、夜風が身体に心地よい。
かろうじて月と星が白く村を照らしているだけでは、どこからともなくなにかが現れそうだ。
本能的に、暗闇に対して恐怖を感じる。
家々の明かりがないだけで、これほど頼りなく思えるものなのだと初めて知った。
チェルトは知らず、自分を抱いた。
「どうした?」
「なんだか、ちょっと怖くて」
「怖い?」
「明かりのない村が、こんなに暗いなんて。知らなかった」
「日が沈むと、世界は暗くなるんだ。野宿はしたことがないのか?」
「村からろくに出たことがなかったし、村を出てからは……」
必要がないかぎり、城から出されることもない。
外に出たとしても、村や町に泊まっていたし、野宿の場合も馬車の中で過ごすことになるから暗闇の中に一人で置かれることはなかった。
「そっか」
言葉をにごしたチェルトに、レオンは突っ込んで聞いてはこなかった。
「なれちまえば、闇だって友達になれるもんだぜ。闇はすべてを包むもんだし、野戦じゃ暗闇にまぎれるのも常套手段だしな」
「戦に出たことが?」
「ああ。まあな」
「そうなんだ」
戦など、遠い世界の話だと思っていた。
物語や歴史の中の話なのだと。
「まだ、起こってるんだね」
「世界は広いからな。平和に見えても、そうじゃないところもある。戦のないリコルルだって、眠り病騒ぎがあるだろ」
「そう、だね」
「えらそうに言ったところで、戦地にいったことがあるってだけで、戦ったっていうわけでもないんだが」
「そうなの?」
「ガディアにしろ、リコルルにしろ、大規模な戦はここ数百年起こってないからな」
あちこちでの小さな小ぜりあいや、夜盗のたぐいを抜けば、連邦も王国も比較的平和な国であると言える。
「リコルルは王が怖いからな、下手な犯罪に手を染めりゃ即死刑になっちまう。ガディアは連邦捜査局の目が厳しいからな」
「ガディアの法の番人だね。治安がいいって聞いてる」
「リズの幼馴染みって言ってたろ。おれたちはガディアの人間だけど、そうかわんねぇと思うぜ。リコルル王は狂王と呼ばれるわりに、政治の腕は悪くねぇ」
「そう、なんだ」
狂王には納得できる。
あれを、目の前にしてみれば。
「旅なれてるのか?」
「まあな。あちこち、ムダに歩いてるから」
「そっか。なら、国状はそんなものなんだろうね」
政治の腕はよくわからないが、レオンがそう言うならそうなのだろう。
ふあ〜っとレオンが大きなあくびをした。
「そろそろおれは寝るかな」
「僕ももう少ししたら寝るよ」
「そう?じゃ、おれは先に寝てるよ。かぜを引く前に、寝ろよ?」
おやすみ〜と片手を振りながらレオンが部屋に戻っていく。
肩越しに振り返ると、自分のベッドにもぞもぞともぐりこんでいる。
すぐに安らかな寝息が聞こえてくるので、チェルトは思わず笑ってしまう。
手すりに手をのせ、満天の空をあおぐ。
暗ければ暗いほど、空気がすんでいればすんでいるほど、星はよく見える。
星は不思議な力を持ち、ねがいをかなえてくれるという。
幼いころに姉の読んでくれた本に、そう書いてあったのをふと思い出す。
本当にねがいをかなえてくれるというのなら―――
チェルトはそっと瞳を閉じる。
「姉上……」
どうか、忘れないで。
迎えに来てくれるのを、いまだ待っていることを。
冷たい手すりの上でこぶしをにぎりしめ、チェルトはゆっくりと目を閉じる。
「いや、ちがう」
待っているだけだった。
なにもしようとはしていなかった。
ただ流されて、日々を過ごしているだけだった。
今の自分は、待つことしかできない幼い子供ではない。
ずっと、姉が守ってくれていた。
今度こそ、自分の番だ。
勇気のあり方は、リズリアが教えてくれた。
「きっと迎えに行きます」
今度は、僕が守る番だ。
強い意志の光を宿し、チェルトは黄金の双眸を開いた。
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