ウェラキッシュ家の事情
暗い夜道を歩いて、ユークリフトは家路を急いでいた。 今夜帰ることになったのはほかでもない。主のとつぜんの思いつきだ。
「そういえば、ユーク」 「なんですか、殿下」 笑顔で振り返った先には、見慣れた主人のあいも変わらずおもしろくなさそうな顔があった。 べつにだからといってティルティスがおもしろくないと思っているわけではない。むかしと比べれば表情豊かになったが、もともとそれほど感情をおもてに出さないひとなというだけだ。 そのへんは第二騎士団の団長とも通じるから、かすかな変化でも見逃さない自信がある。 七年間で、それくらいはつちかわれている。 「最近、家には帰っているのか」 「えー……まあ、ほどほどに」 ユークリフトは言葉をにごす。 近衛騎士のひとりとして、ユークリフトも城に部屋を持っている。最近はそちらばかり使っていて、家にはあまり帰っていなかった。 「帰っていないのだな」 「ははは。まあ、ぼくたちももう二年も過ごしてますから。新婚でもないし、気にしないでください」 「そうはいかないだろう。夫人は大切にすべきだ」 「いやー、いなくてせいせいしてるかもしれませんし」 「奥方は留守居役ではないぞ?」 「わかってますよ。休暇がもらえたときには、帰ってます」 いてもいなくても、エレンは気にしない。 いなきゃいないで、しっかり家をきりもりしてくれている。 「ぼくは、妻を信頼してますから」 「そういう問題でもないだろう。前に帰ったのはいつだ」 「ええと……」 ユークリフトはけんめいに思い出そうと努力する。 昨日作った資料とか、ここ数週間の騎士たちの予定表なら思い出せるが、家に帰ったのはいつだったか。 けっきょく思い出せなかった。 「いつだったかなぁ」 「あきれたやつだな。そんなに前なのか」 「いそがしいですから」 「……そこで俺を理由にするのか?」 「ほかになんの理由が?」 笑顔のいやみにはしっかり笑顔で返す。 笑顔のティルティスがピクリと眉を動かした。 「ほほう。そうか」 「じょ、じょうだんですよ?」 「最近はしっかりはたらいてくれているようだから、休暇のひとつでもやろう」 「えっ?」 ユークリフトは目を丸くする。そう来るとは思っていなかった。 「いや、べつにぼくはつかれてませんから」 「そう言うな。せっかく人員が増えたんだ。たまには休んではどうだ?」 「いえ、増えたって言ってもひとりだけですから」 第二騎士団はまだまだ人手不足だ。 ティルティスはまったくユークリフトの言葉を聞かず、さらさらとなにやら書類をまとめる。 「前からたびたび言われているのだが、母上にも念を押されているんだ」 「妃殿下に、ですか?」 「たまにはおまえに休暇をやれと。妻帯者に優しくないと、今後わが騎士たちは嫁をもらいおくれると」 「そうとも言い切れないと思いますけど」 「反論はなしだ。俺の反論も聞いてもらえなかったからな」 「妃殿下ならそうでしょうね」 「あげく守っていないと、どこから調べるのか文句が来る」 書き終わったらしい書類のうちの一枚を、ユークリフトに手渡す。 「まあ、たまには奥方とゆっくり過ごしてはどうだ?」 「ぼくはたまにでじゅうぶんなんですが。エレンもそれくらいはわかってるでしょうし」 「うら若い女性をいつもひとりにしておいては、かわいそうだろう」 「うら若い……」 この自分を言い負かせて結婚したエレンは、そんなかわいい部類に入るんだろうか。 ふいにユークリフトは切なくなった。 「うちには父も母もいますし、エレンひとりということはありませんが」 「そう言うな。人手不足で第二騎士団のみなにはあまり休暇があげられないのは気にしているんだ」 「そのくらいはみんなわかってますよ。気にしているひともいないでしょうし」 「じゅうぶんに休みをあげられるわけではないが、たまには顔を見せてやれ」 「たまにでじゅうぶんなんですが」 「いっそ家からここに通勤してはどうだ?」 「えー?いやですよ」 わざわざそんな、めんどくさい。 さすがに主人にそんな口はきけなかった。 だがそんなユークリフトの考えそうなことは、ティルティスも読んでいた。 「冷たいあつかいをしていては、のちのちおまえも冷たくあしらわれるぞ?」 「エレンにですか?それはないと思いますけど」 「俺相手にのろけるのか」 「そんなんじゃないですよ。エレンは騎士の妻ですから、夫のこともわかってるってことです」 「だがわたしが言いたいのは、騎士の妻のことではない」 「え?」 首をかしげたユークリフトに、ティルティスは口の端をつりあげた。 「いずれできるだろう、おまえの子に、だ」
「まったく、妃殿下もよけいなことを」 ティルティスが自らエレンとユークリフトの子どもなどということについて気づくとは思えない。かなりにぶいし、家族に対しても実に淡白な反応を示すひとなのだ。 あんなことを言い出すということは、おそらく母である妃殿下からよけいなことを耳に入れられているということだ。 ユークリフトは屋敷のドアをあけた。 「ただいまー」 「あら、旦那さま?」 ちょうど通りかかったメイドが目を丸くしてユークリフトを見つめる。 「今夜はお帰りでしたか」 「ああ。急にそういうことになってね」 「奥さま、大旦那さまー」 メイドはぱたぱたと走って屋敷の階段を駆け上がっていく。 それを見送って、はあっとユークリフトはため息をもらした。 (ほんと、ほうっておいてくれ) 子どものことを言うのは、父と義父、そしてキースバーグのご隠居だけでじゅうぶんだ。 父と義父はおいておくとして、あのご隠居の泣き落としにはほとほと困りはてる。 「あー、わしは、あと何年生きられるかわからんというのに」 そう言ってる間は、まちがいなく生きてられますよ。むしろあなたは長生きするほうだと思ってます。 そう言ってやりたい。 「早くひ孫の顔が見たいもんだ」 あなたには多くの孫がいるでしょうに。 それに孫息子にはすでに子がいると聞いている。 わざわざユークリフトとエレンの子をおもちゃにしなくても、楽しく遊べるおもちゃはほかにいるはずだ。 「聞いているのかね、ユークリフト」 ハッと顔をあげると、階上に杖をついた老人のすがたがあった。 立ちすがたはぴしっとしていて、隠居してなおキースバーグ家の影の当主といわれるだけのことはある。 「あれ……キースバーグ卿」 「あれ、ではないぞ。貴殿は騎士だろう?騎士が他人の気配にうとくてどうする」 「は、はあ」 「忘れておらんかね?約束の履行はたしかに貴殿と孫の結婚だったが、そもそも子ができんことには完全だとは言えんのだぞ?」 「なんでここに?」 「孫とはいえ、婚家を訪れてはならんという決まりはないだろう?」 「そりゃそうですが、なんで今夜ここに……」 あまりに都合がよすぎやしないか。 絶句していたら、キースバーグ卿は目を細めた。 「虫の知らせ、というものか。たまたま訪ねただけだ」 「そうなんですか?」 「わしを疑っているのか」 「いえ、そうじゃありませんけど」 「今夜はとくと語ろうではないか。なあ、ユークリフト」 「おじいさま」 二階の奥からしずしずとドレスすがたの少女が現れる。 小柄な黒髪の少女は、目元をなごませた。 「私から旦那さまを取り上げるおつもりですの?」 「エレン」 キースバーグ卿の横に並んだエレンは、つぶらな黒い目で階下のユークリフトを見下ろした。 「お久しぶり、ユーク」 「や、やあ。エレン」 「いつぶりだか、覚えてらして?」 「ええと……」 「二週間ぶりよ、あなた」 「あー……」 そっと視線をはずしたユークリフトをキースバーグ卿がにらんだ。 「貴殿は孫娘をそんなにほったらかしにしていたのか」 「すみません。しっかり者の奥さんよりもほうっておけないひとがいるもので」 「な、なんじゃと?」 キースバーグ卿が顔色を変える横で、ほうっとため息をもらしながらエレンがほおに手をそえた。 「妬けますわよね」 「ど、どこのどいつだ!わしのかわいいエレンよりも大事だとぬかすのか、貴殿は!」 激昂したキースバーグ卿がまるで剣のように杖をユークリフトにつきつける。 かんぺきにかんちがいしている。 「どこの女だ!」 「ち、ちがいます。そうじゃなくて―――」 「おじいさま。妬けるのは、殿下ですわよ?」 エレンのひと言にキースバーグ卿がぽかんとした。 「なに?」 「このひとは、私をほったらかして、殿下につきっきりなだけですわ」 「殿下とは……ティルティス殿下?」 「でも、もう少しくらい私のこと、考えてくださってもいいじゃありませんの。ねえ、あなた」 「すいません」 ユークリフトは苦笑いを浮かべる。 こればかりは弁解のしようもない。 「でも、殿下がぼくを引き止めていらっしゃるというわけじゃないんです」 ただまだまだあぶなっかしい殿下についていてあげたい。 弟のような、大事なひとだ。 「これはぼくの意思です」 「殿下は愛されていてうらやましいこと。でも」 くすりと笑ってエレンは階段を下りて来る。 目の前まで来て、長身のユークリフトよりも小さなエレンがユークリフトを見上げた。 「私、おとなしく待ってるだけじゃありませんから」 「どういうこと?」 「あら。はたらきかけたら、あなたが戻ってくることはわかっていましたもの」 「それって……」 いやな予感にユークリフトが顔をゆがめると、 「妃殿下のお力はさすがですわね」 にっこりとエレンが予想通りの答えを返した。 「エレン、きみ、まさか妃殿下のサロンに?」 「ええ。招待されましたの。そこでちょっとぐちをこぼしてしまって……殿下には悪いことをしてしまいましたわね」 それでとつぜんティルティスがあんなことを言い出したのか。 合点がいって、はあとユークリフトはため息をもらす。 「殿下、お気にさわっておられましたか?」 「いいえ。こんなことくらいで気になさるような方ではありませんよ。休暇については殿下も気になさっていましたし」 むしろ騎士たちだけでなく、たまにはティルティスも休めばいいのにとすら思っている。 「まあ、これからもたまには休みがとれるだろうから、休みの日は必ず帰るよ」 「当然ですわ。この上休みの日までいつもほったらかされたら、私も怒りますからね」 腰に手をあててエレンがにらみあげる。 (怒ってたから、妃殿下に言ったんじゃないのかい?) これからは休みの日は仕事をためずになるべく帰ろうとユークリフトは心に決めた。 階上を見上げると、いつのまにかキースバーグ卿のすがたがない。きっと今夜はエレンに譲ったのだろう。 (明日は朝から卿のお相手か) きっとこんこんと諭されることだろう。 ユークリフトは頭を振って、妻に声をかけた。 「ねえエレン」 「なんですか?」 「あんまり妃殿下に似ないでね」
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