追憶
本を読んでいたニースはヒュンヒュンという風を切る音に顔を上げた。 「ジャックさんかしら」 読みかけの本にしおりをはさんで、窓に歩み寄る。 案の定、予想通りの人が庭でぶんぶんと木剣を振るっていた。 通りかかった庭師に声をかけられて、笑顔を振りまいている。 「この時間からいらっしゃるのはめずらしいわ」 最近は騎士団の方に行ってばかりで、なかなかこちらの邸の方では見つけられなかったのだ。 ニースは行ってしまう前にとあわてて階段を下りて庭へと出る。 「ジャックさん!」 外へ出ると、くるりと振り返ったジャックがにかりとニースに笑いかける。 夕日がジャックの背後からさしていて、赤い髪をさらに深みのある色合いに染める。 「おう、ニース。休けい中か?」 「ええ。ジャックさんは?」 「いま鍛練場から帰ってきたんだ。今日は早めに切り上げてきたってわけだ」 「めずらしいですわね、ジャックさんが練習を早めに切り上げるなんて」 「団長のところの息子が誕生日なんだってさ」 「まあ。それはおめでたいですわね」 ニースは思わず笑みをこぼす。 騎士団の団長は父よりは若いが、結婚して何年もたつのに子どもがなかなかできなかった家だ。 やっとできたばかりの子どもが男の子だったので飛ぶようによろこんでいたのをニースも見ていた。 「誕生日に小さな木剣をあげるんだって。早すぎるって俺もみんなも言ってるのにさ。いまから騎士にする気だぞ、ありゃ」 「まだ三つかそこらですよね?」 「ああ。だからみんなに親バカだってからかわれるんだよ」 ジャックは剣を地面に刺してくっくっと笑い声をあげる。 「男の子が生まれたときはものすごくよろこんでましたからね、団長さん」 「だからって気が早すぎるって。まだ三つなのに、めちゃくちゃだよな。ポールんちみてぇって笑えてしょうがなくてさ」 「ポール?」 ニースが首をかしげて聞き返すと、ジャックははっとして笑顔を消す。 聞いてはいけないことだったのだろうか。 ニースが言葉を捜していると、ジャックが苦笑して視線を遠くへ向ける。 「俺の親友だったやつだよ。いや、いまも親友だな」 そうつぶやきながらジャックはわき腹をそっとなでる。 ニースは顔をしかめた。 「まさかその……」 ジャックさんを刺した方ですか? そう聞きたかったけれど、聞けなかった。 ニースは知らないことになっているのだから、知らないことを聞くことはできない。 「バカなやつだよ。貧乏くじ引かされてさ。いやな役どころ押し付けられちまって」 「ジャックさん……」 なんと言おうかと考えていたら、ジャックがニースに顔を向けた。 「俺さ、昔士官学校に通ってたんだ」 「え?」 「傭兵暮らしの前……の前、かな。そこで初めて会ったんだよ。ポールに。剣はうまいんだけど、戦術は全然ダメだったし、口は悪いし、すぐ手を出すし、規則も破るし、とにかく底抜けに明るくてうるさいし。困ったやつで同期も教官も手を焼いていた」 「まあ」 「俺はその頃はまだおとなしくてさ。子どもっぽくてバカなやつって、ずっと思ってた」 「おとなしいジャックさんって、なんか想像できません」 いまのジャックを見慣れているから、そのポールという人とはとても合いそうな気がした。 むしろそんな冷めた目で見ているような、そっちのほうがイメージできない。 ジャックがこつんとニースの頭をこづいた。 「こいつー、言うなぁ」 「初めて会ったときから、こんな感じですもの。違和感の方が大きいですわ」 「俺もさ、けっこう両親の年がいってからできた子だったからな。すっごいかわいがられてたけど、そのぶん厳しくて。大人びた子どもだったんだよ。だからなんというか、冷めた視線でやつを見てたからな」 ジャックが自分のことを話すのはめずらしい。 ニースはうれしくなってこくこくとうなずいた。 「たしかに、ジャックさんは甘やかされてそうな気がします」 「なにそれ。俺ってわがまま?」 「そんなことないですよ。ただ、なんというか、自由奔放な感じですから」 「そう?」 「ええ」 いまひとつピンとこなかったのか、ジャックは首をかしげていた。 「ま、その辺はポールとか、その後のボブとかヒューとかに感化されてる気がするけどな」 「あ、ボブさんやヒューさんならわかります」 「あいつらも気まぐれで自分本位だからな」 「そんなに合わなさそうだったのに、なぜ親友なんですか?」 ジャックはふっと笑って、口を開く。 「手に負えないとあいつを教官が俺に押し付けたんだよ。それでしかたなくいっしょにいるうちに、あいつに感化されて、いつのまにか俺も問題児入りだ」 困ったように言いつつも、顔は笑っている。 「ジャックさん、ポールさんのこと好きなんですね」 「そうだなぁ……なんだかんだ言って、やっぱりあいつが俺の親友だからな。士官学校時代も、その後も……いつのまにか、あいつの明るさに救われていた部分もあったからな」 ジャックは優しい顔でなつかしそうにつぶやく。 大切な友人なのだろう。 ニースにとってのヘレンのような。 「ポールの親父さんも軍人で、あいつも軍人にしたくて小さい頃からそういう教育されたんだって。俺の親父は文官だったから、俺が軍人になるのも反対してたんだけどな」 「お父さまは文官だったのですか」 「ああ。俺は本より身体を動かすのが好きだったからさ、親父の親父、爺さまの影響で軍人になったんだ」 「おじいさまがおられたのですか」 「ああ。よく親父がぐちってたよ。父でなく私を継いでほしかったのにって」 ニースの父、伯爵も同じようなことを言っていたのを思い出す。 世の親の思うことは同じなのだろう。 ニースはこくりとうなずいた。 「お父さまの思ったことも本心でしょう」 「そうだな。そう思うと、本当に親不孝な息子だ」 病身の父の死に目にも会えず、独り寂しく暮らしていた母のことも知りながら、結局死に目を看取ることはできなかった。 生きている間にろくに恩返しもできず、これといって喜ばせてあげることもできなかった。 あんなに大事に育ててもらったのに。 父母に劣らずジャックも愛していたのに。 あげく父と母、そして祖先たちの築き上げてきた地位も名誉も財産も、すべて失くしてしまった。 ジャックの代で、オーソン家の歴史をなかったことにしてしまった。 墓にすら、謝罪にも行けない。 それが少し悔やまれる。 だが、人間にはどうしようもないこともある。 「まあ、そこはいいんだ。いずれは会うこともできるだろうから、そのときにでも謝ろうと思っているし」 「ジャックさん……」 ニースはきゅっと胸が痛くなった。 ジャックは、ここでも孤独なのだ。 ニースはそっとジャックを抱きしめた。 「わたくしがいます、ジャックさん」 「ニース……」 「わたくしだけではありません。父も母もレナも、伯爵邸のみんなも、ジャックさんの家族ですわ」 「……そうだな」 ジャックもそっとニースの背に腕を回す。 優しく抱きしめる腕を感じて、ニースはその胸にそっと頭を寄せた。 「ジャックさん」 「うん?」 「いずれ、ジャックさんの故郷にも行ける日が来るといいですわね」 「え?」 「わたくし、ジャックさんのご両親にぜひごあいさつしたいですわ。わたくしが、ジャックさんの……妻ですって」 顔を見られないようにニースはジャックの胸に顔を隠す。 きっと、いまは見せられないほどに真っ赤な顔をしているはずだ。 「……ああ。そうだな。こっそり旅行にでも行けたらいいな」 かなうかどうかはわからない、夢のような話だ。 けれど、ニースがいてくれたらかなえられそうな気がする。 (俺には、こんなにも俺のことを想ってくれているひとがいる) 胸に抱えられる小柄な身体を抱きしめて、ジャックは小さく声をもらした。 「ポールにも、伝えてやりたいな」 俺はいま、幸せだと。 おまえのことを怨んではいないと。 だから罪に思うことはないのだと。 ずっと裏切られたと思っていたけれど、怨んではいなかった。浮かぶのは怨みではなく、なぜという疑問だけだった。 ポールとは、それだけの仲ではなかったのも事実だ。きっと彼も苦しんでいたはずだから。 いまならわかる。 自分を、自分を取り巻く環境を一歩外から眺めることができるほどの余裕を持てるいまだから。 「怨んでねえよって、もう苦しまなくて良いよって、言ってやりたい」 ジャックのことを忘れてくれればいい。 こんな親友いなかったのだと。 そうしたら、苦しむこともないだろうから。 「ジャックさんのことを変えたひとなら、わたくしも会ってみたかったですわね」 「ぜひ紹介したかったね。ニースが俺の愛する人だって」 ポールなら、きっと笑顔で祝福して、応援してくれただろう。 長い間、ともに過ごした親友だ。 「あいつも、俺のことなんか忘れて、楽しく日々を暮らせていればいいな」 その声があまりにも優しくて、あまりにも寂しそうでニースはきゅんとなる。 忘れられるのは寂しい。 けれど、それが大切な人のためになるなら、忘れられていてもいい。そういう思いなのだろう。 ニースは抱きしめる腕に力をこめた。 「いつか、全部話すから」 「はい……待っていますね」 「ニースさまー、夕食の時間ですよー?」 レナの声が聞こえてくる。 そっと離すと、赤い顔のニースが微笑みながらジャックを見上げる。 「行きましょうか」 「そうだな」 地面に刺した木剣を引き抜いて、ニースの後をジャックは歩き出す。 薄紫の空にはキラリと星がまたたいていた。
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