思いがけない来訪
その手紙が来たのは唐突だった。
子どもができたので、実家に一度戻ることにしたの。 そのときにでも寄らせてもらうわ。 あなたに会える日を楽しみにしています。 あなたの友人 ヘレン
その手紙を受け取って、ニースは目を丸くした。 「ヘレンがここへ?」 「どうしたんだ?」 部屋にいたジャックが本から顔を上げる。 ニースが薦めた本を読みふけっていたジャックは、めずらしく午後のお茶の時間が過ぎてもここで時間を過ごしていた。 こういうことがあるなら、たまに本を薦めてみるのも悪くない。 そう思いながらジャックを見ていたニースにそれが届けられたのはつい今しがただ。 「わたくしの友人からの手紙ですの」 ジャックはニースの話をきちんと聞こうと、本にしおりをはさんで本を閉じた。 「うん」 「ヘレンといって、父の友人でとなりの領地のバンテス伯爵の娘さんです。わたくしよりも二つ上なのですが、とても良い方ですの」 「へえ」 「三年くらい前に、王都のいずれかの伯爵さまに嫁がれてなかなか会えなくなってしまいました。その方がその、一度実家に戻られるらしくて」 「ふうん。それで、帰りにここに寄るって?」 「そうみたいです」 三年前から手紙のやりとりしかできなくなっていたので、久々に会えるのはとてもうれしい。 「よかったじゃないか。久々に会えるんだろう?」 「ええ。小さい頃はよく遊びました」 こんこんとノックがあって、レナが入って来る。 「ジャックさま、騎士団の方がいらっしゃっていて、お休みのところ申し訳ないですが、よろしければ指南いただきたいという話です」 「そうか」 最近、ジャックはよく父伯爵の騎士団で剣術を教えているという話を聞いた。そのために、午後のお茶の時間すらとれないときもある。 ニースはなにか言いたそうに口を開きかける。 だが、言うべき言葉が見つからない。 ここで呼び止めたなら、きっとジャックは行かないだろう。けれど、そんなふうにジャックをとどめるのもなんだか悪い。 ニースは眉根を寄せて、さびしそうにうつむいた。 それをしっかり見ていたレナがすぐに付け足す。 「ニースさま、それが……ちょどいいものかどうか、ヘレンさまとおっしゃる方がおいでです」 「え?」 ニースが意外そうに目を丸くする。 手紙は届いたばかりなのに。 「さっき言ってた友人殿か。早いな」 ジャックもそう思ったらしい。 だが、あっさりと納得させた。 「まあ、手紙が届くのが遅くなることくらいあるもんだろ。せっかくの再会なのに、俺が邪魔するのもなんだし、二人でのんびりすればいいさ。ところでニース」 「はい」 「この本、おもしろいから借りたいんだけど、借りてってもいいか?」 うなずこうとしたニースを、レナがさえぎる。 「あら、いけませんわ。ジャックさま」 「え?」 「まだニースさまは読んでいらっしゃる途中ですの。指南が終わった後、そうですね、夕食の後にでも取りにいらしてくださいませんか?」 「え、それはいいけど……」 この後、ニースは久々に友人と会うのではなかったか? ジャックが怪訝そうに口を開くのをレナが口をはさむ。 「ニースさまは本がお好きでいらっしゃいますから、読むのがお早いんですの。だから夜までには読み終わりますわ。取りにいらしてくださいますわよね?」 「あ、ああ」 レナの勢いにおされた形で、ジャックがうなずく。 ニースがレナを見つめていると、レナがニースのほうを向いて、ジャックに見えないように親指を立てた。 レナのお節介ともいえる思いやりにニースは思わず顔をほころばせた。 「じゃあ、ニース。後でまた来るよ」 「ええ。お待ちしています」 「では私はヘレンさまをお通ししてよろしいでしょうか」 「ええ、お願いね、レナ」 レナのおかげで、ジャックと夜に会える。 伯爵や夫人に気を遣ってか、それともニースを思ってか、ジャックは必要以上にはニースに寄ってこない。 決められた時間だけしかいっしょにはいない。それが伯爵への誠意の示し方なのだとニースはわかっている。 朝食、夕食、ときに昼食しかジャックとはいられない。それも父と母を含めてだ。二人で過ごせるのはお茶の時間だけだ。 (町にいた頃ならもっとずっといっしょにいられたのに) ニースが父に認められようとしているように、ジャックもまた伯爵と夫人に認められようと懸命に努力している。 その一環が父の抱える騎士団での剣術指南とわかっていはいる。 だが、それでもさびしいものはさびしい。 めったに会うことなどできない夜、寝る前にジャックに会えるのはなんだか幸せなことに思えた。 (いい夢、見られそう) ニースは口元に笑みをはいた。 こんこんと、戸が叩かれた。 「ニースさま、お客さまをお連れしました」 「お通ししてちょうだい」 ニースが言うと、戸が開けられて、穏やかなペールグリーンのドレスを着た上品な女性が立っていた。 「ニース!」 「ヘレン!」 きれいに栗色の髪を結いあげた女性は緑色の瞳を和ませてニースに歩み寄ってくる。 「元気そうね、ニース!」 「あなたもですわ。それにしても、来るのが予想よりも早いですもの、びっくりしましたわ。手紙はさっき届いたばかりですのよ?」 「あなたをびっくりさせようと思って、着く直前に届くように、出すのを遅らせたのよ」 「それじゃあ前もって教えるということになりませんわ」 ニースが呆れたように言うと、ヘレンは片目を閉じて見せた。 「あら、ぬかりはないわ。伯爵さまにはちゃんと前もってお知らせしておいたもの」 「まあ。あなたらしいわ。あ、どうぞ、おかけになって」 ニースは自ら椅子を引いてヘレンを座らせる。 ヘレンが椅子に座るのをじっと見ながら、ニースは視線を落とす。 ヘレンのおなかは、ふくよかな丸みを持っている。 「その、子どもができたんですって?」 「ええ、そうなの。それで、一度実家に帰ろうと思って。実家で生みたいの」 ニースは椅子にかけながら、心配そうに訊ねる。 「嫁ぎ先の方はなんと?」 「気にしてらっしゃらないわよ。お好きにどうぞって。むしろいないほうがせいせいしてるんじゃないかしら、浮気のし放題ですもの」 ヘレンはなんでもないことのようにコロコロと笑う。 ニースはかすかに眉を寄せた。 ヘレンの嫁いだ王都のなにがしの伯爵とやらは権力のある家柄だ。当人は有能だが、いくつもの浮名を流しているのでも有名だった。 完全な政略結婚―――それによって、当時傾きかけていた名門バンテス伯爵家を立て直した。 (そんなふうでいいのかしら) ニースは不思議でしかたがない。 父と母も政略結婚だったが、父と母はそれなりに上手くいっているように見える。父が浮気をしたという話は聞いたことがないし、母も父を大切に扱っているように見える。 本当のところは当人にしかわからないだろうが、娘の目からはうまくいっていると思う。 (もしも、もしもわたくしとジャックさんがうまくいったなら) ジャックはきっと、そんなことはしないだろう。 ジャックとなら支えあって生きていける。 とても幸せな家庭が築けると思う。 「そんな顔をしないで、ニース。私たちはうまくいってるのよ。ただ、私たちにとって一番のひとがお互いじゃないだけよ」 「ヘレンにも、一番のひとがいらっしゃるの?」 予想していなかった問いにヘレンは目を丸くして、ふっと小さく息をはいた。 「どうかしら。わからないわ」 それでその話は終わりとばかりに、ヘレンは小さく首を振った。 「それはそうと、あなたの話よ、ニース。婚約を破棄したんですって?」 「え、ええ」 自分の中ではだいぶ前の話のように思っていたが、そうでもなかったのだろうか。 今はすっかり幸せな日々を過ごしているのですっかり忘れていた。 「手紙も来ないからどうなったのか気になっていたのよ」 「あ、ごめんなさい。なんだかいろいろとあって、まとまらなくて……」 「心配していたけれど、そうでもなかったのかしら」 「え?」 「もっと落ち込んでいるかと思ったの。聞いた話ではニースの方が断ったっていう話だったから。ほら、わたくしのせいで、とか、責任を一人で抱え込んじゃってるんじゃないかなって」 「ヘレン……」 そんなことを心配して、わざわざ身重の身でここを訪れてくれたのだろうか。 「わたくしはだいじょうぶ。ありがとう、ヘレン」 「いいのよ、ニース。それだけじゃないの。久々に、手紙じゃなくて話したかったの。あなたと」 「しばらくはここにいらっしゃるの?」 「いいえ。あまり迷惑はかけられないから。今日は泊めていただこうかと思うけれど、明日は実家に戻るわ」 「急ですのね」 残念そうなニースの顔を見て、ヘレンはにっこりと笑った。 「あら、しばらくは夫の顔を見なくていいし、のんびりできるもの。それに、生んだらすぐ帰ろうと思っているわけでもないから、また来るつもりなのよ?」 「では、また落ち着いたら来てくださいね」 「もちろんよ。さ、今日は夜遅くまで話すわよ!」
夕食の席で、ニースは一つの席をじっと見つめていた。 長いテーブルの上座に父と母、ちょうど向かいくらいにいつもなら愛しい人が腰かけている。 だが、今日に限ってなぜかそこは空席のままだった。それも、夕食の用意すらされていない。 (どういうこと?) ニースは不安にじっとその席を見つめ続けることしかできなかった。 「それにしても、ヘレンさんはすっかり大人っぽさを身につけられましたわね」 「ああ、本当だな。ニースはまだ幼さが残っておるからな、うらやましい限りだ」 「まあ、そんなことありませんわ。ニースさんのほうが私よりもずっとしっかりしてらっしゃいますもの」 父と母、そしてヘレンが話しているのもどこか遠いような心持になっていた。 (どうして、ジャックさん。お父さまやお母さまが家族じゃないからって追い出してしまったのですか?それとも、変に気を遣って……) 「――ス、ニース!」 はっと我に返って、ニースは父に顔を向けた。 「すみません、ぼんやりとしてまして」 「ニース、さきほどからぜんぜん食が進んでませんよ、どうかしたのですか?」 心配そうに夫人がニースを見つめる。 ニースは心配させまいと首を振った。 「いいえ、だいじょうぶです。なにもありません」 あわててフォークを動かす。 ヘレンも心配そうにしていて、ニースをうかがっている。 伯爵はニースの考えなどお見通しで、小さくため息をもらした。 「ニース、彼なら今夜は騎士団の者たちと夕食を共にするそうだ」 「どうしてですか?」 ヘレンをジャックに紹介して、またジャックのこともヘレンに言いたかったのに。 「私たちが外すように言ったのではないぞ?話が盛り上がっているから、今日は外でということになったらしい」 「そう、ですか」 ニースはフォークを下ろす。 ヘレンはそれを不安げに見つめていた。
「私、わかった気がするわ」 夕食が終わり、ニースの部屋に戻ってきたニースを訪ねてきたへレンが開口一番にそう言った。 「なにをですか?」 「ニースが婚約破棄していてもけろっとしていたわけよ」 ニースはぱちぱちとまばたく。 「食事の際に来なかった彼、その人がいたからね?」 「え?」 ニースのほおが紅く染まる。 「図星ね」 ヘレンの笑顔を前に、ニースはうつむいた。 「いろいろあって、ゴードンさまと結婚することはできないと思いました。そのときにわたくしを支えてくださったのが、ジャックさんなんです」 「ふうん、ジャックさんね」 「ヘレンにも紹介しようと思っていたんです。その、夕食のときに。そしてわたくしの大切な友人であるあなたのことも、ジャックさんに紹介したかったんです」 「どんな方なの?」 「そうですね、わたくしから見た彼は、強くて弱い方です」 「……矛盾してない?」 「しっかりしていて、芯の強い方です。でも、繊細で脆い部分も持っている方」 だからこそ、力を貸してほしいし、力を貸してあげたい。 いっしょに生きていきたい。 「わたくしの、一番のひとです」 ほおを染めながら言うニースを、ヘレンは意外そうに見つめていた。 コンコンとノックされて、ニースは立ち上がった。 「はい?」 「あ、俺だけど」 ニースはぱたぱたと走ってドアへ向かう。 後ろでヘレンが「俺……」とつぶやいているのなど、ニースには聞こえていない。 かちゃりと開けたドアの外には、ほんのりとほおを染めたジャックが立っていた。 聞こえたのかと、一瞬心配したニースだったが、すぐに眉をひそめた。 「ジャックさん、お酒くさい」 「あ、悪い。ちょっといい気分なんだ」 「ちょっとって、どれだけ飲んだんですか」 「そんなに飲んでないぞ?」 「飲んでないつもりなだけでしょう?」 ジャックは眠そうなとろんとした瞳でニースを見つめている。 ジャックは特別強いわけでも弱いわけでもない。だが、騎士団には際限なく飲む人たちがそろっているらしく、それに付き合って帰ってくるといつもこうだ。 いつもとちがうジャックを見ると、ニースはなんだか落ち着かない。 ニースが呆れて小さくため息をもらす。 「まったく、だからいやなんです。騎士団の方と食べてこられると、そればっかりですもの」 「そうかな?」 「そうです。しっかりなさって?」 「うん」 酔うといつもよりも子どもっぽくなるので、ニースはお姉さん気分だ。それはおもしろくもあるが、やっぱり落ち着かないほうが大きいからやめてほしい。 ジャックはめずらしげな目で見つめている人物に気づいて、首をかしげた。 「あれ、お客さ―――」 そう言いかけたジャックがさあっと目に見えて青くなる。 「すまない、ニース。邪魔をしてしまったようだ。今日は失礼させてもらうよ」 酔いもすっかり醒めたらしいジャックはきびすを返そうとする。 ニースはあわててその腕を引いた。 「お待ちになって。本をとりにいらしたんでしょう?持って行ってくださいな」 「いや、今日はいいよ」 「本もですけど、本当は―――」 言いかけたニースの背後に、ヘレンがいつのまにか立っていた。 「初めまして、こんばんは。私はニースの友人のヘレンと申しますわ!」 ヘレンは笑顔でニースの横に立つと、すっと右手を差し出す。 ニースはおどろいてヘレンを見つめる。 王都の社交界でそうとう経験を積んだんだろうか。昔のヘレンはこんなことしなかったのに。 ジャックはあわてた様子もなく、左腕を自分の背に回し、右手でヘレンの手を取ると、少し身をかがめて軽く口付ける。 ニースはどきどきしながらそれを見つめていた。 なにせジャックがそれを別の人にするのを見るのは初めてだ。今までは自分か、あるいはあのジャックの一挙一動を試験でもするように冷たい目で見つめていたあのマナーの教師だけだ。 意外なことにヘレンもほんのりとほおを染めていた。 ジャックはヘレンの手を額にあてて、そっと離した。流れるような動作は、ニースも相手をして練習したものでもある。 (まあ、前にもおやりになったことがあるのかもしれませんものね) ニースはそう言ってよくわからないがむかむかしている自分を納得させた。 「ニース嬢に懇意にしていただいているジャックと申します。夜分にお邪魔してすみません、レディ。すぐにお暇しますから」 「いえ、失礼したのは私です。ごめんなさい、あなたを試すようなまねをしたわ」 「え?」 ニースがヘレンを見て首をかしげる。 「ごめんなさい、ニース。俺なんて粗野な言葉をお使いになるものだから、そんな野蛮な方にニースを預けるなんてできないと思ったの」 「ヘレン……」 ジャックはゆっくりと首を横に振った。 「いいえ、気にしておりません。ニースを大切に思ってのことでしょう。むしろ、そんなふうにニースを大事にしてくれるあなたのような方がニースの友人であることをうれしく思います。これからも、ニースと良い友人でいてください」 「もちろん、私とニースは親友だと思っています」 ジャックはニースに顔を向けた。 「今夜はこれで失礼するよ。明日、改めてまた来させてもらうよ」 「約束しておいてごめんなさい」 「いや。友人が来ると聞いていたのに失念していたのが悪いから。それじゃあ、おやすみ。いい夢を」 「おやすみなさい」 ニースと視線をからませて、ジャックはニースの部屋を後にした。 「良い方ね、あなたが気に入ったのもわかるわ」 「素敵な方です」 「いやだわ、のろけられちゃった。でも、あなたにはお似合いかもしれないわ。思っていることをしっかり言い合えるんだもの」 「ええ」 それを教えてくれたのもジャックだ。 本当に、感謝しきれないくらいに感謝している。 「さ、今夜はとことん語るわよ!彼とのこと、いろいろと聞かせてもらうんだから」 「え、ええ?!」 ニースはヘレンにぐいぐい引っ張られる。 その日は二人、ベッドに転がって、夜が明けるまで語り明かした。
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